本棚A

□嘆息もらす剛毅な弱者
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「ただいま戻り…って、あれ?」

職務怠慢の末、デスクの上に立派に聳え立つ仕事の処理が、ようやく一息ついた。いつもなら迷わず逃げ出す上司も流石にマズイと思ったのか、珍しく朝からペンを走らせていた。終業時間まであと二時間。固いデスクにペン先が打ち付けられる音と、書類の束を捲る音が大将青雉の執務室にこだまする。ようやく最後の仕事を片付け元帥の元に届けた補佐官ひなは、無人になった執務室に違和感を感じていた。

「大将?」

逃亡癖のある上司故、無人の執務室などよくある光景ではあるが、デスクの上が実に不可解なのである。息苦しかったのか、始業時間と共にほどかれたネクタイやアイマスク。更には愛車の鍵までもがデスクの上に放置してあるのだ。愛用の万年筆はキャップすら締められておらず、朱肉は外気に晒されている。いくらズボラな上司とは言え今までこんな事など無かったし、第一愛車の鍵がなければお得意の逃亡すら叶わない。

「たーいしょー?」

ひなは元帥から預かった書類をデスクに置いて室内を見渡した。するとある部屋へと続くドアが少し開いている事に気付く。

「仮眠室?」

ひなは朱肉と万年筆を元に戻し、開いたドアの方へと歩き出す。大将青雉が昼寝をする事など日常茶飯事ではあるが、仮眠室を使用する事は当直の時位しかない。ひなは少し控えめにドアを開けた。

「大将、どうなさったんですか?ベットを使うなんて」

大きな革靴は絨毯の上に転がり、白いベストはベットの足元に乱雑に脱ぎ捨てられていた。布団はこんもりと盛り上がり、規則的に上下している。

「んー…。ひな、鎮痛剤持ってない?」

「鎮痛剤?ありますけど…どうなさったんですか?」

布団を頭から被って喋る青雉の声は空間にこもり、心なしか掠れている様にも聞こえた。

「頭がね、痛いんだわ」

「頭痛ですか。…え!?頭痛!?大将がですか!?」

「ちょっとちょっと、大きな声出しなさんな。頭に響くでしょうが」

「あっ…ごめんなさい」

海軍最強と謳われる大将の一人が頭痛に喘ぐなんてとも思ったが、人より大きな体と能力者だと言う事以外は一般人と大差ないのだと再認識させられる。海から帰還しても怪我一つ無ければ、まして痛みに煩悶する上司の姿など、補佐官のポストに就いて三年目に入ったひなは一度も見たことがなかった。

「少し待ってて下さいね」

慌ててポーチを開くと、生理痛への早い効力を売りにした鎮痛剤が一回分残っている。外箱に印刷された効能リストには頭痛の文字。取り敢えずはこれで凌げるだろうと水と共にトレイに乗せたものの、自分と彼の体格差に足が止まる。

「……ちゃんと効くのかしら」

あまりに異なる体格差に鎮痛の文字が頼りなく見えるが、彼も同じ人間なのだと一人ごちた。

「大将、お待たせしました」

「おー、サンキュー」

ひなが仮眠室に戻るとベットに座った青雉は、中指でこめかみを指圧していた。眉間に皺を寄せて瞑目する青雉は乱れた髪をかき上げて鎮痛剤を手にする。

「あの、これ生理痛用なんですが、大丈夫でしょうか」

「大丈夫大丈夫。鎮痛剤には変わりないんだから」

「私、医務班からちゃんとした鎮痛剤を貰って来ましょうか?」

「あぁ、それは駄目」

ピシャリと言い切る青雉に尻込みし、二粒の錠剤を含んだ事を確認して、ひなは水の入ったグラスを手渡した。

「何故…ですか?」

「大将が頭痛だなんて、カッコつかんでしょうが」

並々注いだ水を飲み干してひなが持つトレイにシートとグラスを戻した青雉は、カフスボタンを外して床頭台に置く。

「そんな。人間なら誰でも頭痛くらい…」

「俺、一応大将な訳よ」

「…?そうですね、存じておりますが」

重い頭を引き摺る様にのそのそと横になる青雉に、毛布を掛けながらひなはしかし同じ人間ですと続けた。

「大将ってのはね、海軍の切り札。謂わば権力、正義の象徴って訳。そんな俺は絶対に弱い所なんて晒せないのよ」

「だから海から帰って来られても怪我一つないんですね」

「いや、それはただ俺が強いだけ」

「…そうですか」

海兵は入隊と同時に正義を背負う。それは補佐官であるひなとて同じ事。同時にのし掛かるは覚悟と責任。それが大将ともなればより大きくのし掛かるのだろう。思えば今の今まで青雉だけではなく黄猿と赤犬の苦痛に歪む姿など見た事ないし、疲れた表情すら見た事もない。もしこの三人が血を流す事があれば、その時はこの海軍の存続自体が危ぶまれる時なのかもしれないと、ひなは思わず身震いをした。

「体はね、何とかなるのよ。痛みも苦しみも奥歯噛み締めりゃあ大体は凌げる。だけど…」

「だけど?」

「心はそうはいかねぇな。俺、心だけは殺せねぇ」

そう言うと人間だからなと笑った。ひなは何があったのかと動きかけた口を紡ぐ。痛みの為か、力なく笑う青雉がえらく憔悴した様に見えたのだ。恐ろしく強く、何人たりとも崩せない強固な鎧を纏ったこの人は、ひょっとしたら恐ろしく純粋で、情に脆く、誰よりも人間臭いのかもしれない。

大将のポストにつくこの人に、人間らしさなど求められておらず、ただただ強く、ただただ非情に。広い組織に属している彼が、えらく窮屈な世界に生きているように思えてならない。

「駄目だな、今日の俺。仕事なんかしたもんでとうとう頭がイカれちまったかも」

「無理だけは…なさらないで下さい」

「大丈夫、少し寝るわ。今夜は飲みにでも行こう。迷惑掛けたお詫びに。まあひなをデートに誘う口実だけど」

「それ、言っちゃ駄目です」

ひなはふふっと笑い、終業業務を終わらせようと踵を返した。

「どこ行くの」

「飲みに連れて行って下さるのでしょう?大将が休まれている間に今日の仕事を終わらせておきます。ゆっくり休んで下さいね、あとは任せて下さい」

こんな時、自分が側にいれば迷惑だと考えたひなは早早に退室しようと足を進める。剛毅な鎧で武装する大将に、あれこれと手を差し伸べること自体が野暮なのである。

「ちょい待ち。仕事はもう良いから、ちょっとここにいなさいや」

「で、でも…」

「でも?」

「弱い所は見せられないと…」

青雉は痛む頭を庇いながらのそりと起き上がると、ドアへと向かおうとしていたひなの手を掴んだ。初めて触れられた箇所が、冷たいはずなのに溶けそうな程に熱い。そんなデタラメな感覚を手首に覚える。

「残念。ちょっと違うな」

「違うって…あのっ…キャッ」

片方のパンプスがコトリと絨毯に落ちて、ひなの体は青雉の胸に収まった。セミロングの髪をコンコルドで纏め、露になったうなじに吐息が掛かり少しくすぐったい。全体重が青雉にのし掛かり羞恥心から頬が紅潮し、指一本すら満足に動かせない程に脳がフリーズする。

「たっ大将!や、止めて下さいよっ。私、重いですからっ」

「重くねぇよ。ひななんて片腕で持ち上がる」

右の肩に青雉の顎が乗り、いよいよ距離感が無くなる。ひなの心臓は早鐘を打ち、せめてもの抵抗とばかりに捩る腰は逞しい左腕に完璧にロックされた。

「確かに弱い所は見せられねぇし、見せたくもねえ」

「だ、だ、だったらっ…」

「でも違うな。うん、違う。他の奴には見せたくねぇけど、ひなだけには見て欲しい訳よ」

耳元で甘く囁くテノールは、ひなの心を縛り付ける。

「俺の弱くてカッコ悪い姿を見る女はひなだけで良い。愛する女に手をあげるような男は棄てて、そろそろ前に進まない?俺達」

ひなの腕に残る青アザを優しくなぞりながらそう言うと、青雉はさあ振りほどいてみろと言わんばかりに腕力を緩めた。


今、両手に力を込めて彼の体を押し返せば。

今、両足に力を込めて立ち上がれば。



―あぁ、駄目だ。私はこの温かい腕を振りほどけない―



見てしまった大将の弱い姿も、垣間見た人間臭さも…そしてこの胸のざわめきも…



「好きな女が殴られる度に、俺は心臓が痛くなる。何もかも棄てて、俺の所に来いよ」



全てをリセット出来るのに……。




end

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