司馬懿研究

□ 第一節 司馬懿の生涯
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宣皇帝は、諱は懿、字は仲達といい、河内 温縣 孝敬里の人で、姓は司馬氏。
司馬懿の先祖は、帝 高陽の子の重黎より出て、夏官(軍政官)の祝融だった。唐、虞、夏、商の時代を歴て、代々その職を継ぎ、周の時になって、夏官ということで司馬(軍官)となった。その後、程伯休父は、周の宣王の時、代々同じ官職を継いで徐方を平定し、官職を氏にすることを許されて、司馬氏となった。楚と漢の間に、司馬コウは趙の将となって、諸侯と秦を討伐した。秦が亡ぶと、殷王となって、河内に都した。漢がその地を郡としても、子孫はそのまま居住した。コウより八代目、征西將軍の鈞、字は叔平を生んだ。鈞は豫章の太守の量、字は公度を生んだ。量は潁川の太守の儁、字は元異を生んだ。儁は京兆の尹の防、字は建公を生んだ。司馬懿は防の次男である。
司馬懿は若い時から優れた道義があり、聰朗で優れた謀が多く、博學で見聞が広く、儒教に傾倒していた。漢末に大いに乱れると、常に憤り嘆いて天下を憂う心が有った。南郡の太守で同じ郡の出身の楊俊は、人物鑑定の人として有名で、二十歳前の司馬懿を見て、並大抵では無い器であると言った。また尚書であった清河の崔[王炎]は、司馬懿の兄の司馬朗と仲が良く、司馬朗に
「君の弟は聰亮 明允で、剛斷 英特、君の及ぶ所では無い」
と言った。
漢の建安六年(二〇一)、司馬懿は郡の上計の下役になった。魏の武帝(曹操)は司空になり、(司馬懿のことを)聞いて彼を召し出した。司馬懿は今や漢の運が微かであると知っており、節を曹氏に屈したくはなかったので、風痺で起きることも出来ませんと言って辞退した。曹操は武人を刺客として夜に往かせて密かに司馬懿を刺させると、司馬懿はじっと臥していて動かなかった。
曹操は丞相となると、文学の掾となって欲しいとまた召し出し、使者に
「もしまた躊躇ってぐずぐずして志を決しない様だったら、司馬懿を捕らえよ」
と言った。司馬懿は懼れて職に就いた。
こうして、太子と游處させ(曹丕の相手役となり)、黄門侍郎に遷って、議郎、丞相東曹の属官になり、それから主簿になった。
(司馬懿は)従軍して張魯を討伐し、曹操に
「劉備は嘘と暴力とをもって劉璋を虜にしましたので、蜀の人はまだ従っていないのに、遠くの江陵を争っています。この機会を逃すべきではありません。今、もし漢中に権威を輝かせれば、益州は動揺しますので、兵を進めてこれに臨めば、勢いは必ず瓦解します。この勢いに乗じてこそ、手柄は立てやすいのです。聖人は時に逆らうことが出来ず、また時を失うこともないものです」
と言った。曹操は
「人間は足りない事を苦しむものだ。既に隴を得たのに、重ねて蜀を得ようと欲しようか」
と言い、司馬懿の言葉には遂に従わなかった。
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