みづのながれ/天上の焔

□月下の魔物
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一段一段踏むたびに梯子が軋む。折れはしないだろうが、古い。自分が国を建てた日にはまずこれを新しくするだろう、などとひとりごちて登った先、真っ白な夜着に身を包んだ孔明が筵の上に座っていた。思わぬ来客に驚いているその表情に、劉備は微笑んだ。

「先生。」

「これは、殿でしたか。夜更けにいかが致しましたか。」

「いや、何ということもない。寝つけないので歩いてみれば、先生が星を見ていると聞いて。邪魔ですか。」

「いいえ、まさか。」

孔明はさっと立ち上がった。

「今夜は空気が澄んで空がとてもきれいだな。小さな星もよく見えるし、色も普段よりたくさん見える気がする。美しい。」

欄干に手を置き屋根の下から身を乗り出して月明かりが劉備の顔を明るく照らした。そして振り向き「すまない、先生は星を読んでおいでだったかもしれないのに、見失ってしまっただろう。儂にはどれも美しいということしかわからないが。」と笑った。

「私も殿と一緒、ですよ。星を読むこともありますが、ただじっと眺めていたいときもあります。」

孔明も劉備の隣に立って空を見上げる。

「おや、先生も眠れないのか。」

「そのようです。」

ふと孔明が見計らったように劉備の方を見て言った。

「ところで、殿にお願いがあるのですが、聞いていただけますか。」

うむ、と頷きうながすと、

「先生と呼ぶのはやめませんか。」

思いがけない言葉に劉備が口を開きかけると、ふたりの目が合い、孔明は続けて言った。

「私は隠居をやめ、今は殿にお仕えする身。呼び捨てていただいて結構です。いえ、その方が都合がよいでしょう。殿が私のような若造を先生と呼んでは、いったいどっちが偉いのかわかりませんから。」

劉備にしてみれば最初から先生と呼んでいたこともあるし、孔明を尊敬する意味で先生を使っていたのだが、まぁ孔明の言うこともわからなくはない。本人が呼ばれて嫌というならなおさらだ。

「わかった。そなたがそういうのなら、そうしよう。」

「ありがとうございます。」

つまらんことで感謝しなくとも、と言いかけて、しかし孔明のお辞儀をして明るく照らされた背中を見てなんとなくやめてしまった。孔明がしたいようにすればいいだけのこと。

この柔らかくお辞儀をする孔明の姿は少し意外だった。孔明の家を訪ね、天下の壮大な見取り図について語り合ったとき、劉備は孔明に溢れる勢いや力強さを感じていた。あのときの熱い語り口やするどい光を宿した瞳に文人とはいえ乱世に生きる漢らしさを感じた。

しかし今こうして話しかけている男は、謙虚で穏やかで、熱っぽさのかけらもない。寧ろしおらしいほど。それだけではない。月光に包まれた孔明の肌は一層白く透き通って見え、とてもこの間まで畑を耕すために鍬を使っていたとは思えないほど指先は繊細だった。まるで女のようだ、と劉備は口には言えず、ひそかに思った。

こんな孔明の姿に自分は失望したのだろうか、否、そうじゃない。よくわからないが、そうじゃない。劉備を不思議な気持ちにさせた。その気持ちを孔明に悟られるのが気恥ずかしく感じ、劉備は再び星を眺め少し間をおいてから孔明に話しかけた。


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