其処彼処

□花籠めに
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 山の頂上に辿り着くと、暖かな風が吹いた。予感は当たったようだ。大木の根元に佇む人影がある。
 淡い紅の着物を纏ったその人は、こちらに気づくと少し驚いたように目を丸くした。その人の元に歩み寄り、手に持った扇を手渡す。畳まれた地味なそれがその人の手に渡った瞬間、ふいに艶めくように見えた。
 長い袖を翻して、大木を振り仰いだその人はぱらりと扇を開いた。花も葉もついていない、節くれだった木の枝だけが描かれている白地の扇だ。白い残光が闇に長く尾を引き、ざあっと音を立てて風が駆け抜ける。掻き乱される髪を押さえて木を見上げると、無意識に口元が綻んだ。
 穏やかな嵐に誘われて、無数の蕾が震えている。今にも開こうとしているようなそれは、もう一度扇が一閃すればすぐにでも弾けてしまうのだろう。
 その光景は、初めてここへ来た五年前、扇を託されたあの日から、この心を奪ったまま消えることがない。
 振り返ったその人が、美しい花の咲いた扇を掲げてふわりと微笑む。昔交わした会話が脳裏に甦った。
(貴方、好きな人は居ないの?)
(……いないよ。好きな人はいない)
 好きな「人」などいない。心は全て貴女に奪われてしまっているのだから。
 春の夜の薫りがする、桜色の風が舞い上がった。

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