其処彼処
□黄昏
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どうやら派手に足を踏み外したらしい。
「平気?」
転げ落ちていく階段の途中で私を捕まえてくれた彼は、僅かではあるが心配そうな表情を見せた。
「…………うん、まあ」
人間、あまりに予想外の事態には却って落ち着いてしまうものらしい。発した自分の声はあまりにいつも通りだった。
「そっか。なら良かった」
相変わらず表情の乏しい顔で、彼は階段の踊り場を見上げる。
さっきまで私が立っていた場所に、何か奇妙なものがいた。
「あれって、何」
彼の背中に尋ねると、彼は軽く肩を竦める。
「さあね」
窓から差し込む逆光の中、何となく輪郭がぼやけたような、はっきりしない影が揺らめいていた。
得体の知れないそれは、どうやらこちらをじっと見ているらしい。
額に手を翳してそれを眺めていた彼が振り返る。
「あれに突き飛ばされたわけ?」
「……いや、私が勝手にびっくりして落ちただけ」
肩を縮めて申告すると、彼は黙ったまま小さく溜息を吐いた。
「そこにいなよ」
そう言い置いて、すたすたと階段を上がっていく。こういったことには慣れているのだろう、その足取りに恐れはない。
むしろ怯えたような反応を見せたのは影の方だった。萎縮したように縮こまり、じわじわと後ずさっていく。
「何もしないよ」
彼がそう言ったのが聞こえた。その手が学ランのポケットを探り、紙の束を掴み出す。それを彼は階下に向けて放り投げた。
すぐ足元に落ちてきた紙を拾い上げる。よくわからない紋様が描かれていて、ああ多分すごいものなんだろうな、と妙に冷静に考えた。
階段を下りてくる足音がして、視界に影が差した。顔を上げると、彼が無表情に見下ろしてくる。
「あれ、さっきのは?」
「もういないよ」
踊り場を見上げると、影は跡形もなく消えていた。
「早いねー」
「大したことじゃなかったから」
下りてきた階段を振り返って、彼は微かに目を細めた。
「彼ら」に向けるその表情は、いつも穏やかで優しい。
「はい、これ」
「拾っといてくれたんだ」
「大事なものなんじゃないの?」
紙の束を差し出すと、受け取ってポケットに突っ込んだ彼はほんの少し笑った。
「……ありがとう」
「追い払うことだけが仕事じゃないから」
初めて会った時、彼はそう言った。
私は、彼が「彼ら」に危害を加えるのを見たことがない。
何となく、彼の職業は「彼ら」を退治するものだという認識があったのだが、どうやらそうではないらしい。
歩き出した彼の背中を追う。
「ね、結局さっきのって何?」
「さあね」
「みんな見えてないけど、しょっちゅうあの階段にいるんだよね」
「早く帰らないのが悪いんじゃないの」
「何とかならないかな?」
「僕には無理」
私たちの影が、夕暮れ時の廊下に長く伸びる。
もうすぐ彼らの時間だ。
早く帰らなければ。