其処彼処

□奏
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 異国の空気にふわりと馴染んで、見覚えのある青年がいた。
 こちらに気づいた様子はなく、橋の手すりに寄りかかって川面を眺めている。輪郭のくっきりとした横顔は記憶の中にあるものよりもずっと大人びていて、まるで知らない誰かを見ているようだった。白くゆったりとしたシャツも、黒い綿のパンツも。
 知らないふりをして通り過ぎることもできたが、青年の面差しから視線が離せなかった。日差しを弾いて煌く水面を映した茶色の瞳を、眩しそうに細めている。
 通りかかった年配の女性が、青年の肩を叩いて何か話しかけた。振り返った青年は笑顔になり、それだけでふっと雰囲気が華やぐ。楽しげに言葉を交わしている青年は、まるで生まれた時からここにいるように親しげだった。
 歩き去る女性に手を振って見送った青年が、笑みの名残を残したまま首を巡らせる。ふいに目が合って、無意識に足を引いた。
 虚を衝かれたような表情をしていた青年は、ゆっくりとした動作で手すりから上体を起こした。確かめるような足取りで近づいてくる。立ち去ろうとすると、それより速く腕を掴まれた。
「ちょ……っ、逃げないでくださいよ」
 この地に降り立ってから初めて聞く母語だ。ちらちらとこちらを見ながら通り過ぎる人々の視線を感じながら、やんわりと手を外した。
「ごめん、そういうつもりじゃなかったんだ」
 首を傾けて苦笑してみせると、青年は少し困ったような顔をした。その表情を見て、しまったと思う。
 ここの人とはあれほど楽しそうに話していたというのに。
「あ……こっちこそすみません。随分久しぶりだったので、つい」
 頭を掻いて居住まいを正す彼は、そういう仕草は昔から変わっていないようだった。
「……お久しぶりです、先輩」
「うん、十年くらいかな」
 あんまり変わってないね、真上。
 そう言うと、青年ははにかんだような笑みを見せて頷いた。


 ここは何だし、うちに来ませんか。
「あんまり広い家じゃないんですけど、よかったら」
 誘われるまま行った青年の家は、その言葉通り「広くは」なかった。
「これはまた……たくさん集めたもんだね」
 玄関先で思わず声を漏らすと、振り返った青年は照れくさそうに頬を掻いた。
「こっち来てから、収集癖がついちゃって」
 元々はそれなりに広かったであろう室内は、ここ数年で集めたという楽器に埋め尽くされていた。
 バイオリンや竪琴のようなオーソドックスなものから、名前も知らないような見たこともないものまで。雑然としながらもどこか秩序のとれた彼らは、そのままこの街の雰囲気を映し出しているかのようだ。
「でも、楽器って高いんじゃなかったっけ」
「まあ、そうですね」
 他を切り詰めて、何とかやってます。
 楽器の弦に触れながら穏やかに言う彼は、そのことを微塵も後悔していないようだった。
 他にすることもないのでその様子を眺めていると、ふと我に返った青年は慌てたようにこちらを振り返った。
「あ、すみません。今お茶淹れますね」
「いや、いいよ。それより何か聞かせてほしいな」
 それに、と言い差して、ちらりと笑う。
「どうせお茶はないと思うけど」
 焦ったようにキッチンへ走った青年は、いくつか引き出しを漁ってから黙って戻ってきた。
「やっぱり」
 思わず声を立てて笑うと、恨みがましげな目を向けられた。
「なんでわかったんてすか?」
「そりゃあ、まあ。君の部屋の感じからして」
 釈然としない面持ちで押し黙った青年は、その表情のまま手近な楽器を手に取る。
「これはまだ弾いたことないんで、やってみます」
 少しぎこちない動きでそれを構えた青年は、一度流れるように全部の弦を鳴らした。何度か押さえる指を変えると、その度に音色が変わる。
「ん、いけそう」
 独り言のように呟いて、青年はちらっとこちらを見た。目が合うと、小さな微笑を浮かべて視線を落とす。
 しなやかな指が弦を弾くと、柔らかい旋律が空気を震わせた。開け放たれた窓枠に腰掛けて耳を傾けていると、音は青く鮮やかな空に染められていくようだ。
 水流のような音楽は留まるところを知らず、より滑らかに冴え渡っていく。
 この身震いするような感覚を、前にも味わったことがあった。
「やっぱり君はすごいね……真上」


 一心に弦を爪弾いていた青年が軽く息を吐いて顔を上げると、ふわりとした風が頬を撫でた。見れば、開け放した窓に白いカーテンが揺れている。窓際には誰もいない。
「……先輩?」
 楽器を奏でる間、そこで幸せそうに目を閉じて聞いていた姿が消えている。
 突然のことにぼんやりしていると、机の上に放置してあった携帯が音を立てた。反射的に掴み取り、耳に当てる。
「もしもし」
 日本語で答えてしまってからそれに気付き、波立つ感情に蓋をする。
『なあ、お前今どこにいんの』
 同じ言語で返してきたのは、高校時代の同級生だった。先輩と仲が良かった彼からの電話に、微かに鼓動が跳ねる。
「どこって……どうして」
『できるだけ早く帰って来てほしいんだけど。碓氷先輩のことで』
 ぷつり、と通話が切れた。自分が切ったのだと気づくまでに数秒かかる。
 幸い電話はすぐに繋がった。
「ごめん、何」
『おどかすなよ。電話代馬鹿になんねーんだぞ』
「ごめん。それで、先輩がどうしたって」
『あー、何か今朝そっちに行くってメールが来たんだけど。それっきり連絡とれねーんだわ』
 お前何か知らない?
 訊ねられて、一瞬言葉に詰まった。
「……来てたよ」
『は?』
「今の今まで部屋にいた」
『……嘘だろ』
 突然声が低くなって、思わず瞑目した。
「嘘じゃない」
『そんなわけあるか、まだ着いてるはずないだろう!』
 わかってる。
 その言葉は喉につかえ、音にならずに消えた。
 机に突っ伏すと、手に持ったままだったマンドリンが椅子に当たって鈍く音を立てた。


『君、楽器弾くのうまいんだね』
『私はピアノぐらいしかできないからさ、羨ましいよ』
『そっか、……留学するんだ』
『また聞かせてよ。いつかそっちに行く時があったらさ』
『これ、書いてみたんだ。君なら簡単に弾けるやつだと思うから、練習にでも』

「簡単なんて……よく言うよ」
 手元に残されたのは一枚の楽譜。短いが穏やかで複雑な旋律は、

 まるで彼女の微笑そのもののような。

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