※《開発編》初期 ※打ち解ける前なので甘くないよ 「あれ?」 その日も講義終わりに真っ直ぐアーガスへと出社したおれは、所属部署へ向かう前に休憩スペースである二階へと来ていた。所属部署近くにも小さな休憩スペースはあるが、取り扱っている飲み物の種類が豊富ではないし菓子類の自販機は二階にしかないのだ。 ガラス張りの喫煙所とバリエーション豊かな飲食類自販機、テーブルや椅子が並ぶ広い空間には見知らぬ社員が散らばっていたが、おれの注目を惹いたのは白衣――自販機前の丸テーブルへ無造作に投げられた白衣……の、ネームプレート。 「……茅場さん?」 アーガスのロゴと茅場晶彦の名が記されたそれは、間違いなくSAOプロジェクトに関わる開発部主任のものだろう。 おれは眉間に皺をよせながら周囲の様子を探る。当人はどこにも見当たらないし、この白衣を気にかける者もいない。開発部といえば、茅場のせいでイコール白衣の人とイメージしてしまっているが、それらしい者もいない。 「……」 伸ばしかけた手をおれは引っ込め、休憩スペースの時計を見上げる。 出勤五分前……。 自販機で買い物を済ませ、このままエレベーターで上階へ行けば余裕で間に合う時間だ。 しかし、この白衣に関わったらどうだろう。開発部の男にわざわざ接触する必要は皆無だが、だからといって一応は見知った仲である相手の(恐らく)忘れ物を放置しておくのは気が引ける。だが、まだアルバイトとして日も経験も浅い身で、なにより会社には到着しているのに遅刻してしまう未来にもまた気が引ける。いや、あの上司のことだから説明すれば納得はしてくれるかもしれない。問題は、これを何処に持っていくのが正解なのだろうか。確か開発部は関係者以外は立ち入り厳禁で……受付のお姉さんに預ければいいのか? でも何て言えば……。 「……!」 決めかね悩んでいるうちに、前方からスーツの男たちが笑い合いながらやってくる。おれは慌て白衣から離れ、自販機と向かい合った。どれを選ぼうか悩む振りをしつつ背中は落ち着かない。 「おい、これ」 男の一人が気付いたようだった。 おれはホッとし、やっと飲み物選びに意識を切り替えようとした――のだが。 「――茅場だよ」 鼻で笑い、呆れたような声。 どうしてか違和感を覚え、そろりと背後を振り返る。茅場より年上だろう中年の男は白衣を掴み取り、笑っていた。 「――無茶苦茶なこと――こっちの身にも――無謀にも程が――」 「いいご身分で――」 「――社長の贔屓――これだから若造は――」 声を潜め、ひそひそと話し合う男たちの声が耳をつく。 全てを聞いたわけではない。 男たちがどこの部署で、茅場とどんな関係なのかもわからない。 ただ彼等の浮かべる笑みが、おれにとって快いものではなく―― 「なんだ、何もねぇや。弱味のひとつでも掴めればよかったのになぁ」 中年男が白衣のポケットを探り、笑う。付き添う男たちも笑う。 それは、ただの冗談だったのかもしれない。 しかし、おれの中で何かが耐えきれなかったようだった。 「あ、あのっ……!」 中年男の不快な笑いを割くかのよう、考えなしに声を掛けていた。 笑いが止み、突然見知らぬ学生風情に話し掛けられたことにより男たちはキョトンとしている。 「あ……の、その白衣、茅場さんのでっ……おれ、茅場さんに届け……あ、いや受付にっ……」 しどろもどろすぎて、自分でも何をいいたいのか、何を伝えたいのか分からなかった。 男たちのキョトン顔は徐々に不信げな訝しいものに変わり、それも相まっておれは首筋が熱くなっていく。 「すみませんっ……! あのっ、これ、おれのなんでっ!」 語彙力と判断力を失ったおれは、半ば強引に中年男から白衣を奪い取るや挨拶もなしにダッシュで逃げる。 最高にカッコ悪い。 そのまま一階受付へ向かうと綺麗なお姉さんに「開発部茅場さんの忘れ物です!」とだけ伝え、またもダッシュでエレベーターへ向かう。 結局飲み物すら買えず、この日は2分程遅刻したのだった。 ** 業務開始から間もなく、買いそびれた飲み物を入手すべくおれはオフィスを出て同階の自販機へと向かった。二階の広さとはうって変わって狭いこの休憩スペースには自販機が一台と適当にパイプ椅子が散らばっている。 おれが小銭を入れようとしたところで背後から何者かの手が伸び、電子マネーの決済音が鳴る。一瞬上司かと思いかけたが、薄いスマートデバイスを手にする男の腕は真っ白の袖で―― 「?! か、茅場さん……」 驚き振り返り、背後で白衣の茅場を見てまた驚いてしまう。 あれから無事手元に戻ってきたのかと思い、やけに早いなと思い、なんで此処にと気付く。 目を白黒させるおれに茅場は「何が飲みたいんだ?」と尋ねるが、その発言は余計におれを混乱させた。 「え……いや……」 「早く選んでくれないか」 無表情にビビるものがあり、おれは慌てて適当なお茶を選んだ。再度茅場がデバイスをかざすや飲料水が瞬時にガコンと落ちてくる。おれは背後で視線を感じながら、すごすごお茶を取り出し、恐る恐る茅場を振り返り礼を述べる。 「あ、ありがとうございます……」 「いや、ありがとう」 「え?」 「白衣」 茅場の短い答えに、漸く白衣の恩返し(?)で奢ってくれたのだと気付く。 「! どういたしまして……」 だが、少し気になることがある。 おれは受付で強引に白衣を預けたとき、名乗らなかったはずだ。 「なんで……」 「……"なんで"?」 純粋な疑問を口にすると、茅場は眉間に皺を色濃く刻む。それが機嫌を損ねたように思え、おれは慌てて続けた。 「お、おれ大したことしてないですし……そもそも、なんでおれだって分かって」 「見てたから」 「……え」 「失くして困るものでもないが、君が自分のものだと主張して奪い取ったときは驚いたよ」 「……ぇ」 見られていた。 衝撃の事実にますます硬直していくおれは、さらに勝手な気まずさを覚える。 あの時、あの場におれの言動を見聞きできる距離に茅場はいたのか――だとすれば、あの男たちの会話も耳に入っていたのだろうか……全てはおれの考えすぎなのかもしれない。 それでもあの不穏な空気に耐えられなかったゆえの奇行だった。 ……茅場には、どう映ったのだろう。 「あの……すみません……」 「何がだ?」 「……な、なにかご迷惑お掛けしたようなら……」 あの男たちの空気を、何も知らないおれが勝手に悪いよう捉えてしまった可能性は否めない。茅場と男たちの関係だって知る由はない。……だが、それを茅場の前で掘り返す気にもなれず、若干キャッチボールの出来ていない受け答えになってしまった。 茅場は僅かに眉を持ち上げ、じっとおれを見下ろし―― 「変なことをいうな、君は」 それだけ言い残し、その場を後にする。 おれは水滴の付いた冷たい缶を手にしながら“あの茅場”が、謝辞へとわざわざおれの許へやって来た事実が奇妙としか思えず深く考え込んでしまうのであった。 ●電子マネーの茅場さん。徐々に主人公くんの心へ踏み込んでいくのである…… 2016/3/19 |