長夢弐

□のっぺらぼう 二の幕
1ページ/7ページ

男の体は煙のように消え失せた。が、残った狐面は歯をかたかた鳴らしながら、男の声で笑う。


「ははは!!貴様の思い通りになどなるか!!」



その姿に、薬売りは一瞬目を細め、そばに控えていた躑躅に声をかける。



躑躅、あれを黙らせておきなさい。薬売りがいえば、躑躅は翳した手から躑躅の花びらを放ち、面をぐるぐるまきにする。



何をする、と呻く面を拾い上げ、躑躅はそれをお蝶の膝に置くと、例の如く隅に膝を折って座った。



「人の情念にあやかしが取り付いた時、それはモノノ怪になる」



薬売りは言いながら、自分の周りに円を書いて札を張り巡らし、それを三段にも四段にも囲んで見せる。



お蝶はその言葉に、薬売りと牢の中で交わしたあの珍妙な会話を思い出し、はっと目を見開いた。



「あなた、もしかして……モノノ怪を斬りに…?」



薬売りはいかにも、と頷き、めんどくさそうにため息をつくと、隈取のされた瞳をゆるりと伏せた。



「ここで斬れれば、苦労はないですよ……全く、面倒くさいモノノ怪だ」



言いながら、薬売りは張り巡らした札を手で操り、自分達を囲む壁のように回路をつくる。



そしてそれを、あの男が作ったような正方形の壁にすれば、真っ赤な模様が浮かび上がり、じわりと不気味に瞬きを繰り返した。



薬売りは躑躅を連れて、座るお蝶の元に歩み寄ると、彼女の膝でガタガタと動く面を見やった。




「見せてやるんですよ、モノノ怪に。貴方の…真と理を」




カンカン。どこかで、たからかに拍子木がなる。




「お蝶の一生……第一幕」



薬売りが静かな声色で言った言葉に、お蝶な頭に疑問符を浮かべたまま、その言葉を反芻する。



「私の…一生?」



言うが早いか、札にじわりと何かが蠢いたかと思うと、お蝶が良く知る人物が浮かび上がった。



『酒だ酒だ!!酒を持って来い!!』



彼女を虐げ、幾度となく罵声を浴びせた。飯盛女か何かのように扱った旦那。姑。舅。



お蝶はその声に思わず耳をふさいで歯を食いしばったが、それでも耳に入る下衆な声に、眉を寄せた。



罵言。中傷。今まで押し殺してきた思いが、お蝶の目に滲んだ涙を伝い、外へ外へと溢れ出る。




だが、薬売りはほう、と何かをいうと、面白そうなものを見るかのように目を細めた。




「なるほど……モノノ怪が取り憑くには、絶好の情念だ」



「笑い事じゃありません!!」



「笑い事ですよ。ねぇ、躑躅」



ーーーどうして。



無表情で左様に、と頷く躑躅と薬売りに、お蝶はつい神経を疑ってしまう。



自分が耐えに耐えたこの日々を、薬売りは笑い事だと言ってのけ、軽くあしらったのだ。




が、お蝶は次に発した薬売りの言葉に、つい目を見張ってしまった。




「こんな笑い事のために……あなた一体、何人殺した?」




何人殺した?分からない。どうして?分からない。忘れたの?…そう、忘れてしまったの。



肉を裂き、血を浴びた。包丁を振りかざした。そこまでは、しっかりと覚えている。なのに……。



だが肝心の、何人殺し、誰を殺したのかは、思い出せないのだ。まるで、そんな事実などなかったかのように。




うつむくお蝶に、薬売りはさらに言葉をつづけた。


「あれを、覚えているか」


「………?」



お蝶が、薬売りの指差す方向をつられてみてみれば、そこには格子窓から覗く、綺麗な空。青い、空。



羊雲がゆったり流れ、時が止まるほど緩やかな空を、お蝶は知っていた。何度も、見ていた。




「空?」



「そうだ、空だ。…貴方だけが知っている、貴方だけの空」



「私だけの………」



そら。




ーーーー私だけの、私だけがずっと見てきた、あの空。




狭い窓は、心を苦しくした。出てはいけないのかと、逃げられないのかと、気が狂いそうになった。




だけどそこから見える空と雲と、梅の花だけは、いつもお蝶の心を癒してくれた。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ