StoryY

□水霞
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水が染み込んでいくように、中に中にと入り込んだ。

ゆらゆらと揺れた、揺れた、水面、手を伸ばしても届かないヒカリ。
目を開いていると感じる痛み、こぽりと喉の奥から最後の泡が昇る。
僕は戻れない。沈んでいく。
ゆらゆらと揺れて、揺れて、……目を閉じる。


《水霞》


「アレン?」
頬を打たれる感覚に目を開いた。
嗚呼、どうやら夢だったらしい、見えた天井はまだ見慣れない新しいそれだ。
どうしてこんな所で寝てしまったんだろう。今は、部屋に帰ってもベッドに倒れ込んで眠ることは無くなったというのに。
目の前に垂れた僕のと同じ色の前髪が、首を傾げる彼の動きに合わせて揺れる。
「……おはようございます」
「お早う」
安心したように破顔した彼に、同じ程度の笑みを返して背を伸ばす。柔らかいソファーとはいえ、無理な姿勢で固まった背骨がぱきりと鳴った。
どれくらい寝ていたのだろう。
「起こさない方が良かっただろうか」
隣に座った彼がぼそりと呟いた。目をやれば黒いハイネックにカーディガンの彼が、床の向こうへ視線を落としているのに気付く。
引き寄せていた机には整理途中の書類が放置してあった。
「いえ」
起きなくちゃいけなかったし、と答えながらさりげなくそれを纏めて僕側の端に置き直す。
着いてくる視線はどこかブレていた。彼なりに気まずさを感じているらしい。
「そういえばリンクは……」
「何か入り用になったらしいが。先刻どこかに向かっていたである」
話を逸らしてみれば、ぎこちなく返事が返って来た。
何だ、という言葉が頭に浮かぶ。けれどその先の言葉が出る訳でもなく、そうですかと終わらせる。
会話が止まった。
そういえば、こんな風に誰かと二人きりになるのは酷く久しぶりかもしれない。それが彼なのは。
「……アレン、」
彼、なのは……?
「アレン?」
「あ、はい」
ぱちんと泡がはじけるように疑問符が消えた。
横を見れば彼が口許を引いて僕を見つめていて、少しだけ心臓が跳ねる。
とはいっても彼が気付いた様子はなく、こちらに声が届いたとわかると視線はまた机を惑う。
声を掛けようと喉を動かしかければ、実は、と切れたはずの言葉が聞こえた。
「待っていたんである」
え、とワカラず声を出してしまう。
彼はこちらを見ずに続ける。
「上着を取りに戻る際、二人がここにいるのを見かけた。……帰ってくる時にも。
アレンは気付いていなかったみたいであるが」
言葉が止まり、口唇が苦笑するように曲がった。
いつのことだろう。思い当たらない。そんなに意識が狭まっていたんだろうか。
彼の視線が僕を覗くようにしていた。何と無く相槌を打つ。彼は笑みを剥ぐと、また口を開く。
「一度はそのまま行き過ぎようかとも思ったのだが、その、気になってそこから窺っていたんである」
指差されたのは廊下の角だった。
あまり人通りの多くないこの場所なら、確かにその場所にいてもこちらから動かない限り気付くことは無かっただろう。
「アレンが寝入ってしまってからも暫くは……」
急に、起てられていた人差し指がつい、と仕舞われ、彼の顔に笑みが見えた。
「……久しぶりであるな」
本当に。
僕は笑みを返して、はいと小さく頷いた。
本当に、久しぶりだった。
彼はカーディガンの袖口をいじりながら、僕は掌を組んだまま、二、三言を交わす。
新しい団服や、新しい本部の事。
少しだけぎこちなく、それでも和やかに。……酷く静かに、僕たちは会話していた。
記憶に残らないほど些細な内容が、息を潜めて脳と喉を通り抜けていく。
人通りの無い通路は上着を羽織った彼の姿でも寒々しい。カーディガンを指先に遊ばせていた彼が、僅かに体を僕へと傾がせていた。
自分の行為には気付いていないのだろう彼と、微かに笑んだまま音を紡ぐ。
カツリ、背後から終幕が告げられるまで。
「何を話していたんですか?」
側に立った硬い爪先に彼の背が跳ね、声が飛んだ。
猜疑を露わに投げられた視線へ笑みを返す。ああ、と意味の無い感嘆詞が頭を掠める。
「何でもありません」
僕は途切れた会話に評価を付けた。
追しようとする疑いを躱し、立ち上がり切れていない彼に目を合わせて促す。
漂った彼の感情に、僕は笑った。
「……大丈夫です」
大丈夫ですから。
「これもですか?」
視線を剥がし、険しい表情が守る紙片を腕から奪う。流れて来そうになったそれを押し返して、逸れそうになった矢を引き戻した。
もう評価は終わって後は評論だけ。議論は必要無い。
では、と微かに吐かれた別れへ小さく頷き、僕は残りたがるカーディガンが廊下の角に消えるのを目の端で追った。
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