StoryV

□羽根
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「へいわ」

であるな。


  《羽根》


外は限りない青空だ。

私は部屋の窓から青を見上げて思った。

ぽたり、紙にインクが落ちて染みを作る。

「いけないいけない」

慌てて業務に戻る。


《働くことは酷く楽しい。

戦争が無いと言うことは素晴らしいことだと実感する。

何とか一人でやっている。

昨日、綺麗な虹を見た。》


夜になれば手紙を書く。

取り留めのない日常を綴る。

宛先は真っ白なままだ。

彼はもういないのだから当然だ。


《真っ白い鳩を見つけた。

昨日は久しぶりにアレン達に会った。

最近物価が高い。

もう声が思い出せない。》


どれほどの事を思い出そうと、此の手に貴方の肌が触れる事は無く、染み付いた筈の煙草の匂いさえ日に日に薄らいでゆく。
亡骸さえ遺してはくれなかった。
たった一つ私に遺された貴方の顔も、指も、温もりも、声も匂いも言葉も全て追憶が奪い去っていく。
思い出だけでしか、繋がる術は無いというのに。
嗚呼、あの時あれからどうしたのだったか。
あの後私は何と言ったか。彼が何故笑ったか。
二人で何を食べたのか。二人で何処に行ったのか。
嗚呼、途切れてしまう。
何も思い出せなくなる。
彼はあの時ああだった、こうだった、そうだった。
全ての時間を思い出すことに費やして。
季節も、日々も蔑ろに。

《今日も仕事だった。

紫陽花がそろそろ咲く。

最近身体が鈍り気味だ。

料理が上手くなった。》

朝になれば仕事に出る。

夕方になれば家に帰る。

夜になれば手紙を書く。

その間も、貴方の事を考える。

「今日もへいわであるよ」

貴方の居ない大平の世界は。

《あの鳩が死んでいた。

前に書いた白い鳩だ。

猫にでも噛み殺されたのだろう。

羽根が、散っていたから。》

平和過ぎて何もかもが淘汰されていく。
幾ら繋ぎ留めようとしても、記憶等薄らいでしまう。
満たされていた私の中が空になってゆく。
今などを、愛している暇も無いほどのスピードで。

書類の上に、貴方のTの文字を見つける。

今では涙ぐむことも無くなった。

忘れることに、恐怖と安堵を覚える。

どちらにしても記憶は流れる。

今では愛しているという実感さえ薄らいで来た。
生活の中に貴方の思い出は幾らでもよぎるのに、日々の中に貴方の姿はまるでない。
思い出すほどに忘却に心痛が絶えず、忘れ行くほどに安堵に自己嫌悪する。
彼がいない生活は平和そのものなのに、私の中では終わりなく思い出と想いの入れ代わりが続いている。
灰になった微かな思い出すら更に燃え尽きてしまいそうだ。

《鳩は私が葬った。》

ぱちぱちと跳ねる火の粉に集めた羽根を投げ入れる。
白い羽根は土と砂に塗れて汚れてしまっていた。
白い鳩は白い骨になり、後には灰が残った。
小さな箱に全てを詰めて、紫陽花の根本を掘り返して埋めた。

鳩も、彼も、思い出も、何もかも。

反らない
戻らない
何もない
これ以上

《毎日へいわであるよ。

仕事も慣れた。

一人でも何とかやっている。

昨日洗濯をした。》

仕事を熟す間に彼を思い出すことも減り、白い鳩が居なくなった後には灰まだらの鳩が番いでとまるようになり、青い空はいつも私を上の空にする。
それでも、夜になれば手紙を書く。
宛先のない手紙は今や形式張ったものに成り下がり、あの時のように溢れる思いも焦げそうな辛さもない。
それどころか最近は過去を掘り返すばかりで、時にうんざりして書きかけて止めてしまう事すらある。
なのに何故書き続けるのかと言われると、それは私にも分からないと答えるしかなかった。
美しく言い表すのなら、愛のせいだとも言える。
けれど私を満たしていた思い出はもう弱り切り、追い立てる日々の生活に息も絶え絶えだ。

それに、私は決めかねている。

愛などという割に、迷っているのだ。
この身体が遂に空っぽになった時、私は何に縋って生きていけば良いのか。何を理由に生きていけば良いのか。
既に私の中の闘志や非日常的な決意は年月と共に錆び付いてしまっている。
生温く住みやすい平和に馴染んでしまった。
ああ、彼を忘れ去ってしまったら私は。

どこへ行こう?


fin

→後書き
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