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□壁の向こうには手は届かない
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そばだてた耳に、微かな空気の振動が伝わる。不規則な声と引き付けを起こしたかのような呼吸。押し殺しているような息詰まり。啜り上げられる鼻水の音。
特別に厚いこの部屋の壁の向こうからでも聞こえる、嗚咽。それは俺が壁にもたれかかっているから聞こえただけなのか。そう、とは答えられなかった。
望んだ、こと、だろ?
少しばかり泣き虫なのははなから知っていた。それでも俺に泣き声だけは聞かせたことが無かったのに。それなのに今更。
いや、聞いているのは俺のせいだ。気まぐれにこの部屋へ足を向けるべきでは無かったのかもしれないと、どうしようもない後悔が頭を過ぎる。連れ込んだ張本人が。調子の良い脳みそに苦い煙草をぐうと流し込む。
長く息を吐けば、白い煙が高い高い天井に昇っていった。この廊下には人気なんか無いから、ヤニの事など気にする必要がなくて便利だと、何時だったか冗談を言ったことがある。それを聞いても、やはり笑っていたのでは無かったか。
鼻をかむ音がした。その間だけ泣き声が静まる。それでもしんとした廊下にはまた微かな音が流れ始める。誰かが足音でも立てていれば掻き消されてしまうような泣き声が、もはや煩い程、響いて。
俺が壁の向こうへ顔でも突き出してやれば驚いて泣き止むだろうか。気を紛らわせる為に下らないことを考える。待つことに退屈し始めていた。酷い野郎だな、と自分を笑う。
唆したのは俺。
そうだろ、と落ちて来た前髪に言い聞かせて、短くなった煙草を床に落としてにじり消した。視界を邪魔するそれを掻き上げて、新しく煙草に火を付ける。赤い火種が巻紙と葉を燃やして、俺を責めた。
あの時手を差し出したのは、俺だ。それでもやはりその手を拒まなかったのは泣き声の主には違いなかった。だから此処まで連れて来たのだから。
部屋へ入るタイミングはなかなか掴めなかった。泣き顔など見たくない。泣き腫らした目を見るのも嫌だった。けれど、次顔を合わせるのは、何時か。今日入れないのに、何時なら会えるというのか。
泣き止むのを待っていた。高かった日は段々と落ち、日差しはどこか物憂げに影を作り出していた。嗄れ始めているのか、苦しそうに咳が混じり始めた嗚咽が壁の向こうでは続いている。どれだけ泣けばその未練が終わるのか、知る由もない。
ひょっとすると終わらないのかもしれない。そう思って嫌気がさす。選んだのは誰だ、と選ばせた俺は自分勝手に思う。自分勝手。そうだよ、自嘲する。確かに差し出した手は拒まれこそしなかった、けれど。
取られることもなかった。
それでも連れて来たのはと俺はぼんやりと目を瞑った。脳裏に浮かぶ笑顔。耳に流れ込むのは。久しぶりに見る顔が赤い目と赤い鼻なんて傑作だと何本目かの煙草をにじり消した。そういえばと思い出す。あの時なんであんな冗談を言ったのだったか。確かあれは、アレイスターがここはまるで一人の様に静かな家だと言ったからではなかったか。

fin


後書き

倦怠期の夫婦的な!?(?ってなんだ?って)


write2009/3/22
up2009/3/23

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