短編・掌編

□昼下がりの読書(掌編)
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 旅の合間、穏やかな昼下がり。宿の二人部屋には時折、紙の捲れる音が響いている。レイヴンはごろんとベッドに横になって、愛しの彼女の後姿を窺った。
 彼女――ナナシはレイヴンが寝ているベッドの縁に腰掛けて、黙々と本を読み耽っている。
 ページを捲る手は淀みなく、せっかく恋人同士が部屋に二人きりだというのに、先ほどから会話らしい会話すらしていない。

「ナナシちゃーん、構ってー?」
「うんー」

 甘えた声を出してみても返ってくるのは生返事のみで、レイヴンとしては何とも不満だ。――色気も素っ気もありゃしない。

 レイヴンはナナシの腰まで伸びた長い髪を一房手にとって、軽く引っ張った。
 ぴん、と艶やかな黒髪が突っ張るが、ナナシはページに視線を落としたまま反応の一つも寄こさない。

「……せめてこっち向く位しない?」
「んー、この本読み終わったらねー」

 言いながらナナシはページを捲る。張りのない声音からして完全に上の空な返事だ。
――これは些か素っ気なさ過ぎやしないか。
 レイヴンはむくりと起き上がった。ベッドの上に膝立ちでナナシににじり寄り、背後から伸し掛かるように抱きしめる。

「…………」
「…………」

 これまた無反応だった。ナナシは下を向いたまま微動だにしない。
 重いだの嫌だのやめてだの言われる事すらなく、沈黙を貫かれてしまった。

「……なによー、その本そんなに面白いワケー?」

 レイヴンは抱きしめる腕はそのままにナナシの頭に顎を乗せ、不満げに下唇を尖らせた。

「うん、今いい所なの」
「ふーん。どんな風に?」

 本の内容にはさして興味もないのに、会話を続けるためだけに質問を投げかける。
 僅かに間を空けて、返答があった。

「……聖騎士が攫われたお姫様を助けに、敵の本陣に乗り込もうとしてる所なの」
「へーそうなの。そりゃまたベッタベタなストーリーね」
「そのベッタベタがいいんじゃないの」

 キッパリと断言するナナシの視線は依然として本に釘付けである。いっそ頑なな程に。
 レイヴンは「そんなもんかねえ」と面白くなさそうに呟いた。
 たかだか本に負けているようで、どうにも癪だ。

「ナナシちゃん。おっさんともベッタベタしてみたくなーい?」

 あながち冗談でもなくそう提案してみた。

「……もう充分してると思うんだけど」と、ナナシの返答はにべもない。
「そりゃまあそうなんだけど。もっとこう、ちゅーとか、他にも色々あるでしょ?」
「うん今は遠慮しとくね」

 間髪入れずにバッサリと切られた。レイヴンは「そんな」といかにも哀れっぽい声を出して、よよよと大げさに泣き崩れる真似までやってのける。
 それでもナナシの反応は相変わらずで、――これ以上なく不満である。

「……もうちょっと悩むなり恥らうなりしてくれたっていいじゃないのー」
「…………」

 流石に呆れられたのか、もはやリアクションの一つも返って来なかった。虚しい。

 しかしここで引いては負けだ。完敗だ。
 本ごときに負けてなるものか。

「ねえナナシちゃん。一瞬でいいからちょっとこっち向いてみてくんない?」
「……あとでね」
「だめ。今」
「…………」
「お願い」
「…………」

 終いには無視を決め込まれるようになった。
 あまりにすげない恋人の態度にムッときて、レイヴンはとうとう強行手段に打って出る。

「別にいーけどー? そっちがその気ならおっさんだって勝手にさせて貰うから」

 構ってくれないナナシちゃんが悪いのよ。なんて大義名分を掲げて、後ろからナナシの長い黒髪を大雑把に手で束ねてわきに避ける。
 露になった白い首筋に所有印の一つでもつけてやれば、幾らなんでもこれ以上の無視は―――ん?

 唇を寄せた寸での所で動作が止まった。
 異変に気がついて、レイヴンは目を瞬かせる。

 ナナシの首筋が、ほんのり赤い。どころか髪の隙間から覗く耳なんて、大丈夫かと心配になるくらいそれはもう見事に真っ赤に染め抜かれている。
 考えてみたら彼女は先ほどからずっと俯いていて顔もろくに見えず終いで。

――これは、もしや。

 レイヴンは無精髭の残る顎をさすった。
 随分前から、ページを捲る音もめっきり途絶えていた。ナナシは本を読んでいたはずではなかったか。

「…………」
「…………」

 依然として本に視線を落として黙りこくっているナナシをしげしげと眺め、レイヴンは次第に相好を崩していった。
 一度分かってしまえば何の事はない、ナナシの素っ気ない態度は単なる照れ隠しに過ぎなかったのだ。

 思い返してみれば、こうしてゆっくりと二人きりの時間が取れるのは、付き合い始めてこの方、今回が初めてのこと。
 それも邪魔の入らない二人部屋に宿泊ときている。
 女性の身からしたら、過剰に意識してしまうのも無理からぬ話ではあった。けれどもその女性が他ならぬナナシだと思うと、可笑しくてならない。

 普段の彼女ときたら、暴れ馬のほうがまだ御しやすいなどと影に陽に噂されるほどの跳ねっ返り娘なのだ。その癖、今のこの有様は一体何だ。
 本を読むフリなんてして俯いて、恋人の顔すら直視できずにいると見える。
 意外に可愛らしい一面があったものだ。
 少しからかってやりたくなって、レイヴンは耳元で囁くように訊ねた。

「ナナシちゃん、その本の聖騎士とやらはそろそろ姫さん助けられた?」
「ま、まだ……」
「じゃあ、いまどの辺り?」
「悪の本拠地に乗り込む前の、えっと…………準備期間?」
「ほーお。決戦前に随分長いことのんびりしてる騎士様もいたもんね」
「……そうね。たまにはそういう物語もアリなんじゃない」
「にしても結構長いこと読んでんのに、全然ストーリー進んでないみたいだけど」
「…………情景描写が丁寧な分、話の展開は遅いのよ。この作家さん」

 追及するにつけ、ナナシの声は次第に尻すぼみになっていく。もうほとんど蚊の鳴くような微かな声になってしまった。
 非常に困っている様が見て取れて、レイヴンは笑いをかみ殺すのに苦心した。

「あれ、そーいや随分前からページ捲る音がしないような……いつからだっけ?」

 密着した状態で、こみ上げる笑いに体を震わせながら言ったので、ついにナナシもからかわれていることに気がついたらしい。

「レイヴン…………意地が悪いと思わないの」

 恨みがましい響きが殊更可愛らしく感じられて、レイヴンはとうとう吹き出した。
 次の瞬間、暴れ馬な彼女に問答無用でぶん殴られたのは、照れ隠しだと信じたい。

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