twitterであげていたおはなし。3

□大きな口で召し上がれ
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調理場に入るのは初めてだ。そのままの靴では上がれないし、靴を脱ぐと裸足だし…と戸惑うわたしを見て彼は無言でスリッパを手渡してくれた。たくさんの調理器具や広い作業台を眺めていたら、手招きされたのは大きな深い鍋の前。

「……?」
「開けるから、よく見ろよ」

彼が得意げな顔で銀色の鍋蓋を開けると、鍋の中は褐色で一見とろみのありそうなスープで満たされていた。スパイシーな香りが鼻をくすぐる。食卓にこんなスープが出たことはなかった気がした。

「これ…何?」
「ポークカレーだ。毎日コース料理みたいなの食ってるって言ってもカレーぐらい知ってるか?…と思ったけど、その口ぶりからして食ったことねーんだな」
「うん、初めて見た。でもいいにおいだね」
「お嬢様の口に合うかわかんねーけど、これは一般の家庭料理でさ、超うめーんだ。使用人は毎週金曜賄いで食ってる。俺は今から休憩だから昼飯で食うんだ。お前も食ってみろ」

お皿に白いごはんをよそってその上に鍋に入った“カレー”をかける。彼のその手つきをぼーっと眺めていたら、ほらよ、とお皿を差し出された。添えられているのはスプーンが一本だけ。

「飯とカレーを混ぜて食うんだよ」
「混ぜ…?お行儀悪くないの?」
「飯をすくってからカレーにつけてルー乗せてもいいけど…混ぜていいんだよ、これは。遠慮せずガッと食え、ガッと」

言われた通りにごはんをカレーと混ぜてから口に運ぶ。

「…おいしい!」
「だろ?俺はさらにこれを乗せんのが好きなんだよ」

傍らの雪平鍋の中にいくつかぷかぷかと浮かんでいた卵を手に取ると自分のカレーの上で割った。

「これ、ポーチドエッグ…?」
「…英語はわかんねえよボゲ。温玉でいいんだ、温玉!」
「カレーに…?」
「疑うなら食ってみろよ、おら」

温玉をスプーンでぷつっと割り、とろっと溢れ出た黄身をルーとごはんにまとわせた一口を彼が差し出した。これって「あーん」じゃないかと思い少し戸惑ったけど、彼が全く気にしていない様子だったのでそのままスプーンをぱくり。

「…どうだ?」
「こっちも、おいしい!」
「だろ?」

声を弾ませた後、彼もカレーを頬張る。

「やっぱうめーなー。最高だ」

いつもは仏頂面なのに、いい笑顔。食べるってこんなに幸せな表情を生むことなんだなぁ、と思った。生まれて初めて出会ったあったかい味を夢中で口に入れ続け、ついには一人前のカレーライスを完食した。達成感や充実感のある食事をこんな形で経験するなんて。うれしくてにやにやしていたら彼がわたしの顔を見て吹き出した。失礼な奴だ。

「…お前、ガッと食っていいって言ったけど…ひどい顔になってるぞ」
「えっ!?」

くすくす笑いながらコックコートの袖で唇の端をこすられた。

「カレーついてやんの」

白い袖に黄褐色のシミがついていた。恥ずかしくてうつむいていたら背中をポンポンと軽く叩かれる。

「うまかったんだよな?マナーだとかそんなの気にせずばくばく食っちまうぐらい。それでいいんだよ。俺は人のそういう姿が見たくて料理の道を志した。お前が全部食ってくれたの、嬉しかった。…あざす」

自分と同じ年齢なのに既に進む道を決め前を見据えている彼を純粋に尊敬する気持ち、そしてさっき見せてくれた笑顔への得も言われぬ甘酸っぱい気持ち、ふたつの感情で胸が満たされた。


「また、あなたのカレーを食べてみたいな」
「あなた、とか堅苦しくって気持ちわりー。飛雄、でいいから」
「とび…お?」
「確か同い年なんだろ、俺ら。まあ使用人の俺がお嬢様にこんな口利くなんて失礼かもしんねーけど…ざっくばらんに話せる奴が屋敷に一人ぐらいいる方がよくねーか?」
「うん…」
「だから俺も、ふたりきりの時は『お前』って呼ぶから。お前も飛雄って呼べ」
「わかった。よろしくね、飛雄」

堅い表情の大人に見張られているような生活だった。使用人の中には年齢の近い者も数名いたけれど、みんなもちろん敬語だし気軽に話せるような状況ではない。たまに身支度を整えてもらっている時にお世話係と軽い会話を交わすぐらいだ。そんな息の詰まる毎日だったけれど、今、屋敷の中に友達ができたみたいでとても嬉しい。

「また食べたいな。飛雄のカレー」
「ああ、バレたら怒られるかもしんねーから内緒でな」
「じゃあ、約束しよ」

差し出した小指を見て飛雄は、幼稚園児かよ、と呆れ気味に言ったけれどすぐにわたしのより少し長い小指を絡めてくれた。ゆっくりと数回絡んだ指を上下させる間、飛雄の顔に浮かんでいた僅かな笑み、心なしか染まっているようにも見える頬を見て胸がきゅっと締めつけられる。

とある金曜日の昼下がり。
これがわたしと飛雄のはじまりだった。
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