めいこい 中編

□その水面に映るのは/切甘
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少し涼しく頬を撫でる夜風が気持ち良い。
手入れされた庭の木々も風に吹かれて葉を鳴らしている。
明るい室内の喧騒はすぐ側にあるのに、目を閉じれば自分も夜の世界の一部になってしまったかの様だ。
必然的に風の音に耳を澄ます事になって、木々のざわめきに手が届きそうに思えた。

普段から朧の刻までには帰る様にと言われているから、こんな時間には滅多に出掛けない。
それなのに、この夜の時間がなぜか懐かしくて愛おしい。
人混みから離れて寂しくなってしまったせいかもしれない。
夜だから、月が綺麗だから感傷的になってしまったのかもしれない。


月が綺麗だから?


目を開いて屋根を見上げると、確かに月が出ていてとても綺麗だった。
でも私が思い浮かべたのは満月に近い、もっと丸い月だ。
今日みたいな明らかに欠けている月じゃない。

それに、せっかく綺麗な月を眺めているのに、どうして呼吸が苦しい程に胸が締め付けられるんだろう。
これ以上視界が滲んで行かない様にと唇を噛んで堪えていたけどそれも無理で、いつの間にか溢れ出した涙を止める事が出来なかった。



(ーー芽衣ちゃん)



私は、ここで誰かに名前を呼ばれたんだ。
でも私の事を「芽衣ちゃん」なんて呼ぶ人はいない。


私の名前を呼んでくれたのは誰?
私はなんて返事をしたの?


せめて声だけでもと思い、再び目を閉じる。
ちょうど強くなってきた風が木々を大きく揺らす音に阻まれて、どうしても声の記憶に辿り着けない。
けれど今思い出さないと、今日のこの事だっていつか記憶から消えてしまうかもしれない。


これ以上大切な物を無くしたくないー。
焦れば焦る程に涙が止まらなくて、肝心の声の主は思い出せそうに無い。
断片的な記憶が浮かんでは消えていった。


(芽衣ちゃん泣かないで)



いつもその優しい呼びかけに慰められていたんだ。
どうして思い出せないの?
その人の姿が記憶の中から現れてくれないかと願って固く目を閉じていると、扉が開く音がした。






「姿を消したと思ったらこんな所に…

って、なんでそんなに泣いてるんだよ?!」


扉を開いた声の主は音二郎さんだった。


「あ、す、すいません、
ちょっと誰かの事を思い出せそうで、そうしたら、涙が……止まらなくて……」

「そうか……………。

"恋しい人のふみを抱いて、私は心も悩乱した"ってところだな」

「……ふみ?」

「そんなに大泣きするって事は、恐らくお前の想い人だな。

……この鹿鳴館が文箱ってとこか。
誰かは知らねえが、そいつの事を思い出してやれよ。
また様子を見にくるからよ。な?」



にっこりと笑う音二郎さんに頭を撫でられて、
また室内に戻って行く姿を見送りながらぼんやりと考えた。

想い人…って、好きな人って事だよね。

これだけ涙が止まらないんだから、私はその人の事を相当好きだったに違いない。
そんな人の事を私は忘れてしまったのかと思うと、どうしようも無いとはいえ自分の身に降りかかった運命を呪いたくなる。
と同時に、音二郎さんが覚えているなら、もしも今日はダメでもいつか思い出せるのではないかという安堵感もあった。
ここでその人と何があったのか、
これからの為にも時間がかかっても良いから思い出したい。
色々と考えていたら希望が持てたせいか落ち着いてきて、
先ほどからそれ程変わっていない庭の様子に目を向けた。
風は少し弱くなり、ざわめいていた木々も今は囁く様に佇んでいる。


このくらい静かなら声を思い出せないかな…。




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