HIT企画

□天使の詩
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―――滞在している海賊が、貸し切った店を一夜で変える事はあまりない。
特に赤髪海賊団のように、金銭的にも余裕がある大所帯の海賊団が、島一番の高級遊郭兼ホテルをたった1日でチェックアウトするのはかなり稀だ。
例によって滞在2日目。
シノは遊郭ではないホテル部分の部屋で夜を明かし、昼は町の様子を観察したりして、2回目の夜を迎えていた。
流石に連日女を連れるほど飢えていないベックマンは、今日はおそらくいつも通りシノと静かに酒や料理を嗜むつもりであった。
シノもそれをわかっていたが、わかっていなかったのは昨夜、ベックマンと夜を過ごした女である。
昨夜と違い、広間を抜ける様子の無いベックマンに焦れては、お前が何か言ったんだろうと言わんばかりにシノにチラチラと刺々しい目をくれるのだ。
周囲に気取られにくいよう、視線でチクチク刺す技術は、女の世界にいるだけあってなかなかだと思う。
しかし、シノが人間風情の攻撃的な視線に気づかないわけはない。
殺気もないくせ、ねちっこい。
シノはいいかげんイラついて、殺気を込めて一瞬女を睨んだ。
が、睨み返らされてしまった。


「……」


ちょっとぽかん…としてしまったのは、相手が果敢にも受けて立とうみたいな態度をとったからではない。
殺気にすら気づかれなかった事に、ぽかんとしたのだ。
こてり、と傾いたシノの頭を、ベックマンの手が撫でる。


「……シャンクスに習ったら覇王色って出来る?」


シノの頭に、もわもわと『一般人にもわかる殺気術!目線で人を恐怖に陥れよう!』というポップな色と字体の教本が浮かび上がったが、それをかき消すかのように撫でる手が上下した。
”視線を合わせる”という行為と”戦い”が直結した密林で、弱肉強食の人生を送ってきたシノにとって、威圧に気づかぬ相手というのは未知との遭遇に近い。
元々自分を、平和ボケした日本人がベースになっている、と自覚しているシノは、この殺伐とした世界でまさか、と思ったのだ。
自分より殺気に鈍い人間もいたのか…と、純粋に驚いていた。
理由を推察するに、シノが遭遇してきた”この世界の人間”というのが海賊ばかりだったのが大きいのだろう。
空島での生活で、とっくの昔に自分も常人離れしてしまっていた事など、頭から飛び出してどこかに消えているようだ。


ぼんやりと不思議がっているシノを見下ろしながら、ベックマンはしな垂れかかる女はおそらく、シノの外見で目が曇っているのだろうと結論付ける。
でなければ、いかに高級遊郭とはいえ、正当な金持ちばかりが客なわけがないのだから、自分達のような海賊を相手にするのもままあるはずだ。
それでこれ程危機感が薄いのは考え辛い。


「(しかしまァ……――少し面倒だな……)」


ベックマンはこういう所が面倒で、どうにも女にがっつけない。
度量の広い男の中には、そういう所も可愛いものだという奴がいるが、ベックマンはどちらかというと萎えるタイプである。
これが例えばシノなら、ヤキモチ焼いてるのかと微笑ましくなるのだが、やってるのは昨夜会ったばかりの女だ。
自分の肩書きがそれ程優越を齎したのだろうか。
理由はどうでもいい。
大事になる前にと、女に席を外させようとした所で、シノが突然立ち上がった。
トイレか、と何も言わずに見送ったベックマンは、それが10分20分と経つにつれ、不審に思い始めた。



――――時は少し巻き戻り、立ち上がったシノは瞬時にこのホテルの支配人の所へ飛んで、豊かに切りそろえられた髭を撫でるように札束ビンタをかましていた。


べしっ!べしん!!


「あゥっ!あゥんっ!!」

「おっお客様!!何か至らぬ点でも……!?」


それ程力は入れていないのだが、札束で往復ビンタされるたび、支配人の頬が赤くなっていく。
痛みとは別の理由で赤くなっているとは思いたくないが、後に控えた従業員は無言でビンタを続けるシノに涙まじりに恐る恐る問いかけた。
赤髪海賊団の中では殊更目立つ存在であるシノの顔は、ホテルの従業員達で知らぬ者の方が少ない。
そして現在、スタッフルームを混乱の渦に叩き落しているシノはというと、久々に仲間という盾なしに見知らぬ人物と話さねばならぬ状況に、内心ちょっと狼狽していた。
自分で来たくせに。


「………ちょっと……―――」


用意して欲しいものがあるの。
たったそれだけを言うまでの所要時間、約5分であったという………打たれ終えた支配人は、何故かしばらく息が荒かったらしい。
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