ヒカルの碁
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……どうして、黙っているんだろう。
小波は困ったように俯く佐為の言葉を待っていた。
しかし、佐為はためらうように視線を泳がせた後、袖で口元を覆ってしまう。
その様子はまるで、真実を知っているのに口をつぐんでいるように小波の目には映った。
制約でもあるのだろうか、と小波の胸に急に不安が広がってゆく。
例えばそれを言ってしまったら、もうこの世に留まっていられない……とか。
それとも、私がショックを受けるような内容?
過去の因縁で恨み……とか……?
小波が良くない想像を巡らせていると、不意に佐為の姿がゆらり、と一瞬陽炎のように大きく揺らめいた。
佐為!!
消えないで、と打ち消すように強く願う。
佐為が消えてしまいそうに感じたのは、小波の気のせいだったのかもしれない。
しかしその一瞬の揺らぎが、佐為が生者ではない事を小波に思い起こさせた。
佐為の存在を確かめたくなり、小波は心細さから佐為の袖に手を伸ばした。
指先はその薄衣を通り抜け、ただ空間をさまよう。
触れた感触を感じる事もできない。
……なんで?
私、初めて佐為に会った時は、佐為の事触れてた。
頬に当たった布の感触だって今も覚えてる。
どうして今はダメなの?
佐為の事を詳しく知ろうとするたび、何かに迷い込んでいくようで謎は増えていく。
近づこうとすればするほど、佐為が遠ざかっていくような気分になり、小波は気分が塞ぐのだった。
「そろそろ、行こう」
ヒカルが小波を促す。
今日二人が待ち合わせをした本当の理由は、棋士院に向かう為だった。
今度の手合いの為に勉強したい、との理由で昔の棋譜を調べる予定になっている。
ヒカルは本因坊秀策がお気に入りらしく、よく秀策の棋譜を並べている。
今日のお目当てももちろん、秀策の棋譜だ。
ヒカル以外にも秀策の棋譜は人気がある。
棋士院の営業時間では読みたい棋譜が貸し出し中の事もあるため、ヒカルのように休みを利用して、頻繁に棋士院に足を運ぶ棋士もいる。
本因坊秀策のどこに皆惹かれるんだろう……。
本因坊秀策の陰として碁を打つ佐為の棋譜は、流れるようで癖が無く、共に打っていて気持ちがいい。
中にはもっとダイナミックな棋譜を好む棋士もいるが、小波も例に漏れず、本因坊秀策の……佐為の碁が好きだ。
涼やかで、優美で、穏やかな佐為を体現しているような碁。
先ほどまで打っていたネット碁にも、それは記録として残されていた。
俺、最強の碁打ちがいるってことを皆にーーーーー
不意に、あの倉でヒカルが切々と訴えた言葉が蘇る。
……そうか。
そういう事か。
「私が佐為と出会ったのは、佐為の碁をたくさんの人に伝えるためなんだね」
ネット碁にsaiとしてログインし、対局を重ねるのと比例するように閲覧者は爆発的に増えていった。
皆が佐為の碁から強さを学ぼうとしている。
神の一手に近づこうと、もがいている。
「私も……佐為の碁を皆にもっと知ってもらいたい」
そっと小さな決意を口にする。
今まで見つける事の出来なかった、自分のやりたい事。
本因坊秀策も、同じ気持ちだったのだろうか。
「貴方は……本当に……」
佐為が声を詰まらせ、小波を抱き寄せた。
あの時と同じ頬に当たる布の感触に、小波が目を細める。
佐為は、私の側にいる。
幻なんかじゃない。
佐為の腕の中で存在を感じながら、小波はこれから自分にしか出来ない事が見つかったようで、佐為に感謝の意をこめて微笑み返したのだった。