ヒカルの碁
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「おや、珍しい組み合わせだね」
棋士院のドアを開け、やって来た人物を見て受付にいた斎藤が目を丸くした。
「お疲れさまです」
棋士院の入り口から、見知った人物が歩いてくる。
一人は昔からの馴染み、もう一人は最近毎日のように顔を合わせている。
二人を見つけた斎藤と同じように、その2人組も破顔した。
私服で髪の毛をおろした小波が、にこやかに斎藤に挨拶を返す。
普段見慣れている格好と違い、服の趣味のせいか華やかな印象を受けた。
一緒にやって来たヒカルは斎藤に軽く右手を上げ、時折小波に楽しそうに話しかけている。
一瞬デートなのかと斎藤の頭に考えがよぎったが、二人の雰囲気はそういった感じでもない。
「進藤先生が、棋譜を見たいとの事で今日はご一緒させていただきました」
院生の最初の頃とは全然違うな、と斎藤はあの頃を思い出して忍び笑いを漏らした。
院生の頃……小学生の頃のヒカルは棋譜なんて面倒くさいなどと言って、資料のある部屋にはあまり立ち入らなかった気がする。
ああ、そういえば一時期狂ったように本因坊秀策について調べていた事があったな……。
それ以外をのぞけば、斎藤の知っているヒカルはアキラに突っかかったり、とにかく誰かに対局したりと、囲碁に真正面から向かっていた。
……どちらかというと実践で鍛えられていたように見受けられる。
……彼も成長した、という事なのかな。
昔から見守っている子たちの成長は、自分の事のように嬉しい。
……ただ、ふと斎藤の頭の中に疑問符が浮かぶ。
不思議そうにその疑問の元である小波に斎藤は視線を送った。
「あれ?
藤城さんって、碁打つんだっけ?」
斎藤が首を傾げた。
入社した時には碁は打たないと言っていた気がする。
自分の聞き違いだっただろうかと、記憶をたどろうとして斎藤は眉間に手を当てて考え込んだ。
その様子に、少し焦ったように小波が説明する。
「その……。
碁は……昔打っていて、解禁したんです!」
「なんだ、そうだったのか」
斎藤の方はそれで納得したらしい。
本当の事が言えないもやもや感が小波の中に広がっていたが、それが一番自然に思えた。
「鍵は……と。
じゃあ藤城さん、頼んでも良いかい?」
「はい。
ではお借りします」
斎藤から鍵を受け取り、奥の棋譜が保管されている倉庫へと足を運ぶ。
実際に本因坊秀策の棋譜を目にするのは、あの講習会の時以来だった。
期待に胸が膨らんでいく。
この扉の先に、新しい世界が広がっているような気持ちが小波を支配していた。
「……これだ、秀策の棋譜」
ヒカルが嬉しそうに何冊か棚から本を取り出した。
非常に古く、表紙などはすり切れてしまっている。
ヒカルはまるで宝探しのように、次から次へと秀策の棋譜を見つけては、机の上に積み上げていった。
瞳がきらきらと輝いている。
小波はヒカルが取り出したうちの1冊をパラパラとめくった。
棋士院がしっかりと手入れをしているため、埃が舞い散るような事は無い。
古ぼけた紙の香りと、墨の香りがかすかに鼻孔をつく。
……私、この匂い……好きだ
ふわりと香ったそれに優しく包み込まれ、小波は穏やかな気持ちになって口元に笑みを浮かべた。
ゆるりと開いたページには白と黒の碁石が並び、数字が振ってある。
……この、対局……
「……知ってる……」
……今まで読んだ囲碁の本の中にあった……?
ううん、無かった。
初めて見る碁……のはずなのに。
対局の棋譜を見るたびに、相手の顔が浮かんでは消えていく。
同時に囲碁の碁盤と打ち筋が川の流れに乗っているかのように、端から端へと流れていった。
信じられない、といった表情で小波はどんどんページをめくっていった。
佐為、これってーーーーーーー
どういうこと?
そう、尋ねようとした小波の身体がぐらり、と揺れた。
ふらついた小波の側にいる佐為の表情が、悲しみに染まっている。
……どうしたの、佐為……
泣かないで……
小波が佐為に手を伸ばそうとするも、意志に反して指先はぴくりとも動かない。
私の指、どうしちゃったの……?
視界の隅から徐々に侵食して来た黒いもやが、光をだんだんと奪っていく。
—————— 佐為、何だか怖いよ ——————
自らを支える事が出来なくなった小波が、棚にもたれかかるようにズルズルと床に沈みこんだ。
やがて小波の意識は、黒い闇の中へと溶け込むように完全に呑まれたのだった。