承太郎は風邪を引いた。おそらく風邪だ、と自分では思うが、医者じゃあないので断定できないし、そうであるのなら大病でないことを祈る、それだけしかできない。もしもここが住み慣れた家だったら、戸棚から見つけ出した体温計を口に咥えただろう。ホテルの一室、仲間がいたならば、軽口を叩きながら額の温度を比べ合っただろう。今は、そのどちらも欠いている。確かめる術も、案じてくれるだろう友も、傍にいない。本来の居場所から遠く離れて、冷たい部屋の中。

 「味気ねぇ、天井」

 目覚めればいつだって暗がりに、ひとり。もうすぐ二十一世紀だぞ、電気ぐらい通せ。文句のひとつも言いたくなる、と思いながら、熱っぽい体を起こして汗を拭う。まだ、だるさは消えていない。



 承太郎は敵に捕まっている、いわば囚人だった。敵とは、先祖代々からの『仇敵』らしいのだが、その辺を深く考えた覚えはない。承太郎にとっては現在進行形で人を食い物にするだけでなく故意に弱者を利用し踏み付ける男であり、母の命を脅かす男だ……男だった。そんな悪鬼、DIOの館に身を置いている以上、体力を失うわけにはいかず、だから、昨夜、というか数時間前、嫌な寒気を感じた時、早々に対策を取った。硬くて冷え冷えとしたベッドへと潜り込む……それが精一杯だったのだが。

 牢に投げ入れておけばいいものを、わざわざ用意して『くださった』部屋には電灯もなかったが他にもいろいろと足りず寂しいところがある。パイプベッドよりはいくらか上等、程度の大きなベッドには薄いシーツしかなく、窓もないためにカーテンレースの一枚も暖の足しにできない。対して悪寒は増していき、夜になるといよいよ寒くて仕方なくなった。

 背中を丸め膝を曲げ、腕を体に巻きつけて、歯の根も合わなくなるほど震えていたら、ふ、と何かが顔に触れた。これは、指、だ。誰かが寄り添う気配。誰か、って誰だ。この部屋に来る者。おれのところに来るやつ。少し緊張しながら、けれどどこかで沸き立つ感情が心臓を弾ませているのを感じつつ、承太郎は重い目蓋を持ち上げていった。

 「あ……お前……ああ悪いな」

 発熱とは、こうも心を弱らせるものなのだろうか……目を開けるとすっかり見慣れた、雄々しい戦士が静かに見つめていた。自分で無意識に呼んだのかもしれない、あるいは本体の危機と判断して自主的に現れたのか、添い寝するように目の前にいるスタープラチナを見て、そうだなお前がいればひとりじゃあない、と承太郎は確かにほっとしていた。そこに嘘はない。ないのだ。なかったが、全身を犯す寒気が、一気に増した。承太郎は唇を戦慄かせ急いでスタープラチナへ、ぐ、と身を寄せた。自分の大事な分身、スタンドがいればひとりじゃあない……でも、スタンドしか、いない。こんなナリして煙草吸って酒飲んで多くのスタンド使いと戦ってきたのに、なんたるザマだろう。

 「やれやれだ、ぜ」

 このままだと渦を巻きド壺に嵌りかねない思考を切り離さなければ。風邪を治す。それが先決。優先事項。そのためには、そう、汗。風邪には汗をかくのがいい、というのが空条家の家訓だ。心の中のぐるぐるを無理やり封じ込み、スタープラチナに自分の体を抱き締めさせて、布団と毛布の代わりになってもらう。そして承太郎からも腕を回し、胸と胸をくっつけ合い、密着した。

 「ちと窮屈だが……おれが寒いとおめーも寒いからな。持ちつ持たれつだぜ」

 実体なき精神エネルギーに甘えて、まさに自分で自分を温めながらもう一度目を閉じた。



 そして数時間経って、この深夜だった。こうしてどうにか汗をかくことができたというわけだ。ひとまず寒気は落ち着いている。しかし、寝たら多少マシになるかと思ったのだが本調子にはほど遠い。汗でべたつく体がきもちわるい。

 こんな時に野郎と出くわしたらろくなことにならねえ。

 だらしのない、と嗤うだろう。

 『野郎』のことを考えて、ふと、承太郎は憂う。ろくなことをしないろくでなしで、ついでにひとでなしでもある、正真正銘の人外。自分を捕まえている張本人。DIOの姿を思い浮かべれば熱のだるさも忘れそうになる。

 「吸血鬼は風邪を引かない、だろうな」

 本体が無事起き上がっても心配してか見守ってくれているスタープラチナに微苦笑をして見せ、ベッドから足を下ろす。立ちたくないとごねるが踏ん張らせた。靴を履くのも億劫で一苦労だった。

 DIOの、あの白い肌が朱に染まる画というものを承太郎は想像できない。吸血鬼は風邪を引かない、熱を出さない。つまりそれが体にもたらす辛さをとうに忘れてしまっているDIOだ、宿敵の病欠を許してくれるとは思えない。夜の暇潰しに付き合わされては治るものも治らんと、承太郎は部屋から出る決意をした。逃げとは違う、これは避難だ。戦略的撤退だ……言い聞かせていなかったと言えば、嘘になる。

 汗で張りつくシャツだけ脱ぎ捨て、ドアに手をかける……かけたまま、承太郎はぴたりと止まった。もし。もしも。もしかしたら。たとえば。今この時。このドアノブが回ったりしないだろうか。回って、向こう側から開いて、佇む姿が在りはしないか。

 ひとりだと気持ちは溢れる。隠せるものじゃなかった……こんな、埋めようのない、寂しさは。

 「そうだぜ。会いたくねーから、出ていくんだぜ」

 まだ傍らに立っているスタープラチナの視線に気付き、自分の中の『待ちたがっている』自分と決別して、承太郎は今度こそドアを開けた。

 足は、『外』という自由へと繋がる出入口、玄関のある階下ではなく、逆に階段を上っていく。



 牢より待遇の良い部屋に入れられている承太郎は、望まぬ監禁をされているわけでもない。部屋それ自体に閉じ込められてもいないのだ。こんな風に館の中を歩いても何か言われたことはなく、承太郎がどこをうろつこうと気にする者も皆無だった。というか、そもそもDIOが頓着しないのだ。一見、寛容なように思えるが違う。これはDIOの余裕と遊びなのだ。

 以前、DIOに見つかるようわざと外へと続く扉の前に立った時も、制止の声すら上がらなかったことで承太郎は確信した。逃げられるものなら逃げてみろ……DIOの目は、三日月形に歪み輝く双眸はそう言って、承太郎を見つめた。そうして、承太郎は踵を返しながら思った。DIOは、そのあとにきっとこう続ける……自由になればいい、母親もそれを望むだろうよ、と。

 子を想わぬ母はいないように、母を想わぬ子もまた……母子の絆に特別な感傷でも抱いているのか、DIOは承太郎の中にあるホリィへの深い愛情を見抜いている。承太郎が逃げ出す、それはイコールDIOが約束を守る意味の消失となる。母ホリィのスタンドを鎮める、という約束を反故にする違反だ。だから、DIOは承太郎が歩き回ることに気を割く必要がない。空条承太郎は母を想うがゆえに逃げないのだから檻も鎖も要らない、そんなDIOの考え通り、母の命を思えばここに留まるのも承太郎にとって当然だった。もっとも、館の中でどれだけ勝手に動けようとも、見えない鎖で繋がれているのと同じだ。

 だけど、承太郎が逃げない理由、逃げたいと願ったりもしない理由は、それだけじゃあなく、あと二つ、ある。一つは、脅され怯えてではなく戦うために、ここに、DIOの傍にいる。スタープラチナは近距離パワー型のスタンド、DIOを倒すにはDIOの近くにいることが必須だ。近ければ近いほどいい、面の見える距離がいい、まばたきの音さえ聞こえる位置なら完璧だ……だから承太郎はDIOを避けなかった。

 『逃げる』んじゃあなく、機会を『逃がさない』ために留まっている。囚人ではあるけれど自分こそが狩人だ。そう思ってきた。

 たとえば。招かれれば夕餉の席にも着いた。一対一で開かれる小さな晩餐会。向かい側に座るDIOは、やれどこ産の何年物だのという蘊蓄と共にワインを注いでくる。かと思うと、ぎこちないナイフ捌きだ、と承太郎のテーブルマナーに茶々を入れる。そうやって遊ばれたって席を立ったりせず負けじと応戦した。だったら教えやがれ英国貴族様、とレクチャーを求めた。もちろん売り言葉に買い言葉だった、けれど。

 「よかろう……貸せ」
 「おい」

 身構える余裕もなかった。時を止めて後ろに立つDIOはいとも容易く承太郎の首を撥ねられる手で、承太郎の手に触れる。そっと包んで、導いて、

 「こう……するんだ……分かるか?」
 「わ、かった、分かったから離せ。自分で、できるから」
 「やってみろよ……そう、そうだ、上手じゃあないか」

 囁くDIOの息。その穏やかな息吹と離れぬ手の温度を感じながら、散りそうになる集中力を懸命に繋ぎ止めて、承太郎はDIOの隙を探っていた。結局ディナーコースのデザートまで、ふたりで甘く平らげてしまった。

 たとえば。晩酌に付き合えと叩き起こされる時も、いいぜ、と頷き、見つめ合いながら明け方まで静かに飲んだ。承太郎は舌に慣れないワインの渋みに眉間の険しさを濃くして、しかしDIOから目は逸らさず。グラスに口付けるDIOが一瞬でも余所へ気を飛ばしたなら、すぐさまラッシュをくらわすと決めていた。いたのに。

 「ほら」
 「と……こいつは」

 突然DIOが投げて寄越したものを反射的に受け取る。赤いパッケージの缶は、よく冷えたコーラで、それとワインで満ちたグラスとをDIOは顎で示す。割ってみろ、飲みやすくなる、お子様舌でも嗜めるとは便利な時代になったものだ……独りごとのように呟くDIOの意識が承太郎から逸れることはなかった。

 こうしてあらためて振り返ってみると、館を出ていかない理由の今一つがいやがおうにも浮かんでくる。あとはそれを、素直に認めるか否か、だけだった。



 DIOには会いたくない。思いながら、一歩進むごとに、自分の前に重厚な扉が現れたりしないだろうか、棺桶の置かれたあの部屋が、と考えてしまう矛盾を抱えて、承太郎は壁に手をついた。

 いつかは対峙しないとならない自分の心。熱のせいでか、秘めきることができない想い。ほらみろ、やっぱり、ド壺だった。

 やばいぜ。熱が上がってきた。冷たい水、浴びねえと。

 健康な状態ではない時に自分自身と向き合うのはフェアじゃあない。休養、回復、冷静になる。三点に重きを置き、頭を振って歩調を速めた末、承太郎はようやく見つけた、目的地。当てもなくふらふらと歩くのではなく、とある場所を目指していた。何のことはない、汗で湿った体を洗い流すべく風呂を探していたのだ。階段を上っているはずなのに再び下の階に戻ってきたり同じ景色が続いたり、迷路のようだと頭痛に苛まれ内心呻きつつも、めげずに進んだ。その甲斐あって辿り着いた浴室。もはや視界はぼやけて、朦朧として、膝が折れてとっさにバスタブへ縋って、だが、それでもまずは掛け流すための湯を張る準備をしなければと、蛇口を捻ろうとした、ところで、一旦意識が飛んでいる。



 水の音。体を覆う温さ。背中で感じるやわらかな弾力。どくんどくん。響く振動は自分のものじゃあない。懐かしくて安心できるリズム……自分以外のひとの音。

 バスタブに片腕をかけてダウンしていた承太郎が次に見た景色は、

 「おゆ? う、ぷはッ」

 たゆたう乳白色。いい香りというよりはなんだか不思議な、かつ嗅ぎ慣れた匂いのするそれが口につき、本能的に身じろいだ。体の周りから、ぱしゃ、と生まれた水音よりももっと間近、耳元へと、

 「なんだ。いきなり目覚めるな。さすがにバランスが崩れる」

 そそがれる声。聞き間違えるはずのない、ずっと待っていた、声。初めはぼんやりとしていた承太郎もだんだんと状況を理解していく。どうやら当初の目的は達成されたようだ、自分は風呂に浸かっている。ちょっとばかり温くて物足りないが、これぐらいの温度なら体への負担も少なそうだ。汗も流せただろう……思うそばから承太郎は首筋にしっとりと、新たな汗の玉を浮かせた。小さな雫は舌に掬われていく。承太郎はびくりと跳ねるが、あまり動けない……広いバスタブが、狭い。窮屈だ。当然そうなるだろう、男二人が入ればぎちぎちだ。

 生きていないかのように生白く、けれど逞しい腕にがっしりと抱き抱えられて、承太郎は微温湯の中にいる。さっき跳ねた飛沫がかかったのか、顔を拭おうとしたのだろう、DIOの片腕が胸から外れる。合わせて承太郎は立ち上がろうと四肢に力を込めた。しかし残るもう一本が決して離さなかったため失敗に終わる。それで体力を使い果たした。こうなったら、もういいか。そんな投げやりな心境で、承太郎は自ら沈むことにした。完全に背後のDIOへと身を預ければ、柔くしなやかな筋肉のついた胸に受け止められた。とぷん、と揺れる白い湯。DIOが肩口に顎を乗せたようだ。濡れて束になった金糸、DIOの髪が承太郎の肌に垂れてくすぐってくる。湯の独特の香りに混ざってDIO自身の匂いがした。くどくない甘さ、蜂蜜のような、いい匂い。

 「なんの、嫌がらせだ、てめぇ」

 不自由ながらも振り向き、風邪を引いている時は湯船に浸かってはいけないと教わって育ったことをうったえるがDIOには一笑された。吐息が皮膚を掠める。

 「貴様の田舎の風習に合わせてやる道理はないな。風邪にはこれがいい」
 「牛乳、か」
 「下味のついた貴様をこのまま食べたくなるのが難点だがな」

 ぱしゃり。また、DIOの手が動く。ミルクをたっぷりと含んだ手のひらは承太郎の頬に半端な温度を伝える。案外、熱を宿している頬には心地好い。

 「じっとしていなきゃあだめだろう」

 幼子を叱るような……ようなというよりそのものの穏やかさでDIOは承太郎を叱る。どうして部屋を出たんだ、しかもあんなにも無防備な格好で、と言う傍ら、DIOは湯を掬っては承太郎の肩や項に掛けてくる。時々、唇も押し当ててきた。

 「会いたくなかった、男がいたからな」
 「ほう……どんなやつだそいつは。さぞ、貴様の心をかき乱しているのだろうな」

 分かっていて聞くのだからいい性格をしている。どうしてと言うのなら、と承太郎はあいかわらず肩にいるDIOの顔に擦り寄った。乳くさい温さに頭がふやけてうとうとしている。眠くなってきたのだ。だからぐらついて、まるで甘えるように自分の肌をDIOの肌を擦りつけてしまうのだ。と、いうことにしておきたい。

 「どーして、かあさんごっこなんざ、してる」
 「確かにこれはわたしを産み落とした女との記憶を元にしているが」

 眠気につられて表情に声音に舌ったらずなところに幼さを滲ませてしまう承太郎を、DIOが撫でた。

 「恋人が臥せっていて何もしないDIOではない」
 「らばーず……スティーリー・ダン?」
 「なぜそこでその名が出る」

 顔を顰めたDIO、その夜に承太郎が最後に見た画となった……半眼のしかめっ面とちら見えする牙、そして頬をほんのりと赤くしたDIOは風邪よりもよっぽど重症のようだ、と思う反面、目蓋の裏にしかと焼きつけていた。

 「夜はわたしの時間だ。お前が眠れるまで傍にいるぞ……と、もう聞こえていないか」

 承太郎は既に闇の中にいるけれど思考はまだ闇色に染まり切っていなかった。ちゃぷ、ちゃぷ、鳴るのは水音だと分かっているし、それと共に、額に当たる感触が水滴じゃあないことだって、分かっている。

 「起きたらちゃんと言わないとな。承太郎」

 聞こえているぜ。もう、眠たくて返事はできねえけど。だからおれが起きたら、言え。はっきり言いやがれ。そしたら。おれも。



 承太郎は恋に落ちた。おそらくか? いいや絶対に。

 風邪は治っても熱の引かない日々が始まろうとしている。



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