主のコレクションがまたひとつ増えてからもう何ヶ月経つだろう。主は欲しい物を必ず手元に置きたがる大変な収集家だが、手に入れた途端関心を失くすというたいそう贅沢な男なので、貴重な品々は放っておかれて埃を被ることとなる。しかし、今回のソレは、倉庫の奥にしまい込みふと思い出した時に磨けば良い……類のものではなかった。ソレは複雑で、手間がかかった。誰かが毎日世話を焼かねばならなかった。『誰か』とは、この館においてならば、とうに決まっていた。主の生活に仕える者だ。つまり、主の私生活への助力に加え、ソレの『お世話』が、今までの執事業にレイズされる形となった。

 日々の仕事が増えた、面倒臭い、と、思わないでもないのは当たり前。たとえば、地元の漁師から買い付けてきた新鮮な海の幸を運ぶ時、口から零れるのは疲れから生じる心底の溜息だった。アレ自体がわがままを言うわけではない。むしろ、何かの希望を述べるどころか、そもそも無口な性質らしく、あまり口を開かない。愛玩動物のように狭い籠に囚われていながら、ひたすら無愛想。媚も甘えも知らないのではと思える堂々とした姿。猫を見習えと言いたくなるほどのふてぶてしさ。少なくとも、厚く頑丈な硝子越しにとはいえ目の前に執事が立っていたとしても、そこには目もくれない。水中で緩く尾鰭を打ち悠々と漂うだけで、声の一つも掛けてはこなかった。喋らないし、笑わない……もちろん、主の前では違うのだろうが、とにかく周りに頓着しない自由奔放振り……イコール感情をまったく見せないわけじゃあない。

 梯子を上り、高い縁からそっと食事を差し入れると、ひらひらと舞い落ちる海藻の一枚を受け止めて胸に抱き、そうしてこちらを見上げてくる。縁に身を乗り出し揺れる水面を見下ろして彼の小さな世界を覗き込めば、水の透明感にも負けない澄んだ緑色の瞳がこう言うのだ。

 いつも悪い。助かっている。

 それから一口齧って、ほんのちょっぴり緩まる表情。

 故郷の味がする。

 声にこそしないけれど向こうの思考が伝わってくる。それに合わせて自分の胸まで郷愁の念に駆られるだから不思議だ。さすがは神秘の生き物、と思うのだった。

 そういうわけで、昆布や若布といった磯の匂いに包まれ今日も食事を運ぶ途中。いつも通りの時刻。いつもの足取り。いつもの溜息。鮮度抜群の逸品を渡したら今日はどんな感想を聞けるだろう……いつものちょっとした期待。いつもの日常。そのはずだった。

 「おや」

 市場で仕入れた海藻もといアレ専用の朝食を手に、階段を上がろうとした時。見知った姿を見つけた。華奢な肢体を惜しげもなく晒すのは同僚の女性だった。主とも並び立てるぐらいに露出度の高い格好は見ているだけで寒々しい。商売女もかくやといった風貌だがその正体は殺し屋で、実際彼女の腕は確かなようだった。もっとも、やはり性格には難があって、おはようございますと挨拶をしても綺麗に無視される。

 「あなたがここに来るとは……いったいどちらがお目当てなのか」

 館を訪れた目的ははたして。忠誠を誓う主に仕事を終えた旨の報告を。あるいは、最近一目惚れしたという水槽の中のアレを今一度見たくて、か。彼女の思惑は読めなかったが、ここは主の領域、あらゆるものが主の私物。素通りさせるわけにはいかないし、ふらつかれても困る。細い肩に手を置き引き留めようとしたところで、テレンスの記憶は途切れている。



 体が本能的に求める安眠とは水の中にある。底に置かれた大きな岩のオブジェに横たわり目を閉じれば、静かな暗闇はあっという間に訪れて、ぐっすりと眠れる。よく眠れれば目覚めの気分も良い。水が故郷だ。水の底が安寧の場所だ。水無しでは生きられない。昔から言い聞かされて育ったし、水無しでは……その下りは真実で、わざわざ否定するつもりもない。半人半魚の身はそういう風につくられている。母なる海と共に在れという生活が普通なのだ。魚には魚の、ヒトにはヒトの、それぞれの生き方があって、自分もまた、この種に生まれたからにはそれに倣うことが一番だと分かっている。平凡ながら確かな幸せへと繋がる道は見えていた、けれど。

 心が求める寝床は水底じゃあなかった。欲した幸福、その価値観が同胞とは違った。承太郎が安心を感じるのは水の外だった。岩よりも柔らかな、ふかふかのベッドの上に転がされて、体が乾き始める前に白い手のひらが肌を、鱗を撫でていく、くすぐったさを知ってしまえば、もう戻れない。体にとっての肺呼吸がどれだけの負担になろうとも。水流の子守歌や珊瑚達の愛撫よりも。たったひとりの者がもたらすあの感触が恋しく愛おしい。

 喉元から鰭の先まで余すことなく滑る手、その熱は室内の温度よりも低くて、ああ吸血鬼だから皮膚も死人のように冷たいのだろうと、普通ならそう考える。でも、違う、と気付いたのだ。吸血鬼でありながらも人並みの体温を持っていると、もともと知っていたが、そこからさらに、DIOが己の温もりをあえて下げていることをも、承太郎はちゃんと見抜いた。

 伊達に観察しちゃあいない……紅茶とワインと、血と、その日の気分での飲み分け方、とか……毎晩どんな本を読みふけっているのか、とか。

 気付かないわけがないのだ。だって、いかにも小難しそうな叙事詩や抒情詩に混ざってあんなものがベッドの脇に置いてあったら。きっとDIOは、人魚の脳にヒトの世の学など備わっていないとでも思っているのだろう。無造作に本を積み重ねておけるのもDIOの侮りゆえに。どうせ分かるまい、という驕りがある。だけどあいにく、承太郎は文字の読み書きを身につけていた。DIOに捕まるまで、時間は限りになく無限に近かった。行く当てなく海面を漂う、瓶に入った手紙を眺め回したり。沈没船で見つけた、濡れてインクの滲む書物を懸命に解読したり。覚えた線の形、砂の床を何度も何度も指でなぞったり。それは、美しい少年と出会えたあの日から始めた自主学習だったが、結果的に努力は実を結び、数十年という歳月も承太郎の知識をよく高めてくれた。

 だから、乾かした手で持ち上げたこの『うみのいきものずかん』も読めるのだ。かわいらしい絵の横につづられた説明文を正しく呑み込める。

 「みんなの体温は、お魚にとって高熱で、無理に触ると、火傷をしてしまいます……おさかなだってよ、DIO。こいつはおれでも分かるぜ。こども向けの本だとな」

 パッと見てそれと分かる絵、大きな文字に簡単な言葉。おかげで承太郎にも読みやすい。結構な読書家であるはずのDIOも、これを読んだのだろうか……ページに付いている折り目を見つけて、ゆっくりと擦る。かたかた、と、嵐でもないのに窓枠が揺れる。部屋にある鏡台も卓も長椅子も震えている。人魚の声帯が起こす振動だった。ベッドに寝転がり、何度も読み込まれているらしき紙を一枚一枚めくりながら、承太郎は微笑みを抑え切れなかった。胸の奥から込み上がってくる温かな気持ちも止められやしない。夜には欲望に任せ無体を強いることもあるくせに、だいたいにして生き血を吸うくせに、でもそういう時、触れる際には極力体温を下げているだなんて、こんなこと、気付いてしまえば、それこそ心臓から全身へと火がついて火傷しそうじゃあないか。

 DIOとは本当に恐ろしい男だ、昔も今も、自分にとっては毒だ。思いつつ、DIOの『こころ』を映す図鑑を眺め、承太郎の尾鰭は犬の尾っぽのように揺れていた。

 そうだ、その時は水槽から抜け出て、DIOのベッドにいたのだ。夜明けと共にDIOは地下の棺へと眠りに行ったけれど、自分はこっそりと舞い戻ってしまった。あれほど高く感じていた水槽の天辺から床までの距離も、一度脱出して以来コツを掴み、今ではもうひとりで降りられる。これも自力でよいしょと上がったDIOのベッド、DIOの本を読みながら、DIOの匂いに包まれて、だんだん目蓋が重くなった。昨夜DIOに愛でられた分だけの眠気やって来て、うとうととしていた。油断はあった……と、我ながら思う。

 かくん、と大きく頭が下がった時だ。施錠の外れる音とノックなしに開いた扉。最初、見えたのはいつもの執事ではなく。見知らぬヒトでもなく。前に見た覚えのある女がぼうっと突っ立っていた。手には重そうな鍵の束。やがてがしゃんと落ちる。一拍遅れて突然膝を崩し倒れていくその女、を背後から抱き留める腕。二人目の闖入者。見るからに、しっかり鍛えられていると分かる、逞しいその腕の持ち主は、苦笑を見せてひとりごちた。

 「いくら悪女とはいえ、こんなに強引な『協力』を頼むのも気が進まなかったんだが」

 どうやら気絶したらしい女を丁寧に長椅子へと座らせてから、その眼差しで当たり前のように承太郎を捉えた。何が起きているのかは目で追い頭で処理して理解できていた。けれど、承太郎は動けなかった。ぽかんとしていた。警戒体勢を取るべきだったのに、彼が近付いてくるまで彼のことをじっと見つめていた。

 「目当てのものは見つけたし良しとするか」

 その声がずいぶん近くで聞こえた時には既にベッドの真ん前に立っている。彼に対して、承太郎は怯まなかったが逃げようともしなかった。抗おうと思わなかった。いや、思い浮かばなかった。緊張感も湧かず、しどけなくシーツに尾鰭を広げ、ただ彼を見上げていた。ここまでの接近をDIO以外に許したことはない。DIOと似た白人系、DIOよりも優しげな面立ちと、DIOよりは儚い色した金糸。そういったところに好奇心が惹かれてしまったのだろうか、しかしそんな理由でここまで腑抜けるのもおかしい……結局、何が琴線に触れたのか自分でも分からない。ひとつ言えるのは、彼に脅威を感じなかったということ。もし、殺意や敵意といった害意を相手から感じ取っていたのなら反射的に『適切な行動』を取れたのだが、彼はあくまでも自然体だった。穏やかな風が通り抜けるように動いた。大人しくしていろよ、だなんてお決まりの文句過ぎて返って軽口に聞こえる一声と共に、頭からすっぽりと湿ったタオルをかけられ、覆われた。そこからの記憶がどうにも曖昧で、次に目覚めたら薄暗い場所に居た……という経緯だ。そして今に至っている。

 どんな角度からどう見たってこの状況、誘拐されたと考えるのが妥当だった。

やれやれこれだけよく捕まる人魚も珍しいだろうと、承太郎はガクボウをわずかに持ち上げて周囲を見渡す。運がないのか隙が多いのか。十中八九後者の気がして情けない気分になる。そうはいっても、自分が窮地に陥ったって冷静さを失わずにいられるのは幼い頃から変わっていない。やることも同じだ、大事なのは、現状を把握すること。天井は、高い。窓もあるがその位置も高く、光は射していない。頼りない電灯がいくつか。光源がそれだけだと視界はひどくぼやける。時刻は夜、で、何かを置いておく倉庫。耳を澄ますと波の音。海が近い倉庫。潮騒以外には何も聞こえない。辺りにヒトビトはいない。目の前の人影ふたつ、それで全部だ。

 「いい鱗だな。艶がある。ささくれてもない。鰭も、ウン、綺麗なもんだぜ」

 さっきから値踏みしてくる男は黒髪だ。暗い中で辛うじて拾った色にどことなく既視感があった。壁に寄りかかることで地べたに座っている承太郎の前を陣取るようにしてしゃがんでいる黒髪。そいつから数メートル離れて入口だか出口だかを見張っている金髪。二人組はこういったことに手慣れているのだろうか。交わす言葉は少ないのに互いへの信頼が見え隠れしている。

 「近付き過ぎだぞ。その人魚、嫌そうにしている。ひっかかれるぜ」

 金髪はずっと扉を気にして、黒髪の方を見向きもしないで、けれど黒髪が何をしているのかまでを分かっていて、注意する。それを黒髪は半分以上聞き流す。大丈夫だ爪だってきちんと整えられているぜ、と、タオルから出していた承太郎の手指を指して笑う。若さに満ちた笑顔だった。

 「今じゃあ滅多に会えない人魚だ。出発までまだ暇があるからお喋りしよーと思ってよ……だが」

 出発、盗品を運ぶためか、こいつらは商人か何かなのだろうか、それにしては屈強に過ぎる、盗賊というやつなのか……世間知らずなりにもいろいろと考えていたらいきなり顔が急接近してきて承太郎は目を見開いた。後ずさろうにも背後は壁。口と口が触れ合いそうだ。この男もDIOと同じく、人魚という異形に忌避がないのだろうか。黒髪の表情は豊かだった。十秒前までの笑顔をもう別のものに変えている。真面目にしていればもっと凛々しくなるだろうに、唇を尖らせて不満そうな顔はこどもっぽい。金髪とはまた違った雰囲気だけれど、そこに悪意を見出せず、承太郎の中の警戒心は反応しない。

 「話さねえの?」

 とはいえ、そんな指摘をされれば、承太郎は意識して唇を閉じる。話せと言われて話すのも癪だ。

 「それとも話せねえ?」

 ふい、と視線を逸らすと黒髪も追ってくる。また拗ねたような、ふざけた顔をしているのか。ちらりと見やって、またも驚かされた。思いのほか真剣な目に貫かれて、背筋が伸びた。いっそう顔つきを険しくして黒髪は手を近付けた。承太郎の口、顎、喉と、撫でる動きを見せる。

 「飼い主に喉を潰されたか?」
 「あいつはそんなこと、しねえ」

 とっさに言い返していた。感情の揺れに呼応して空気が震う。倉庫内に、きん、と耳鳴りが響いて、成り行きを見ていた金髪は耳を押さえ、片目も瞑る。一方の黒髪は動じずに承太郎の奏でる『音』と真っ向から対峙している。

 「それに……おれは好きであそこに居る」

 強制された生を歩んでいるんじゃあない。DIOにも告げたことはない想いをどうしてここでこんな盗人相手に言えるのだろう。奇妙な気持ちに戸惑いながらも、今、言わねばならないと感じていた。

 「だったらあの男、おめーを取り返しに来ると思うか?」
 「ちょっとばかり気に入っていたもんが失せたからそれで慌てるタマじゃあ、ない」

 内心では正反対のことを思う。DIOは、来る。自分を必ず探し出す。戦うのにも躊躇しないだろう。だが。

 「こいつらただモンじゃあねえ相当の手練が二人いくらあいつでも危うい嫌な予感がするぜだからおれは助けなんざ絶対に呼ばん……ってところかな、おめーの気持ちとしては」
 「はッ」

 今度こそ全身に戦慄が走る。覗かれた。心の中を。

 「てめぇ……いったい」

 まるで女のように胸元の、タオルの合わせ目をきつく握る。そんなことしかできない。あいかわらず目の前の男からは微塵の悪意も見出せないのだ。抵抗が意味をなさないこの男が、だからこそおそろしい。丸裸の心を隠すせめてもの砦、承太郎が縋ったタオルを払い除けて、肩へ。ひた、と触れる男の手はヒトとは思えないほど冷たい。承太郎の肌にはちょうど良い温度……それもDIOと同じだ。けれどDIOでないものに触れられる違和感と拒絶反応は凄まじかった。思わず震える承太郎の頬を通る唇が、ちゅ、と音を立てる。キス、というよりも掠めるのに等しかったが、承太郎は頭を振った。違う、これは違う、この感触は違う。いやだ、という思いが溢れて、う、と呻く。すると、男は自らの黒髪をかき乱し、力のない声音で茫然と呟いた。

 「お前、もう、選んでいるんだな」

 重症だな……、と耳へ吹き込まれる声にどうしてか胸が痛む。

 「だったら……殺しちまうか」

 それが、DIOに向けてのものだと瞬時に悟って、その瞬間、承太郎の中で何かが爆ぜた。

 「させねえ」
 「う、ぐ」
 「させねえぜ誰にも」

 肩を掴んでいた手、掴み返して、引き剥がす。尋常でない力に男が眉根を寄せる。手首をぎりぎりと締め上げて、拮抗状態からさらに押し返しながら承太郎は男を睨む……男の背後に見える、運命というものを見据えている。生ある者はいずれ死ぬ。不老不死でも終止符は打たれる。いつかそうなるのだとしたら。DIOが、滅びるのならば、その時、それを与えるのは。

 「裁くのは、おれだ」

 男が瞠目する番だった。半眼気味だった青い目が少しずつ開いていき、そして、

 「うぅ」

 ぽたぽた。地面にできる染み。ぽろぽろと落ちる水滴は、男の瞳から溢れている。次々と流れるそれは次第に固体へと変わっていく……ダイヤモンドの粒はきらきらと光って転がった。

 「本気なんじゃな……承太郎」

 知らない声。だけどそこに感じる懐かしさ。聞き間違いか……いいや間違えるはずない、今のは。承太郎は握っていた手首を離した。泣き濡れる男の顔をよく見たくて額を寄せていく……むかしむかし、優しい家族、大好きな――にそうされていたことを思い出しながら。

 「白熱しているところ悪いが。来たぞ」

 バンダナをなびかせて素早く、金髪が向き直った方向。もっと明るく、ひどく妖しく煌めいている豪奢な黄金色……さらりと流れていた髪が逆立って、炎のように見えて、眩しくて、承太郎は目を細める。それをどう解釈したのかDIOは開けた口から鋭い牙を見せた。氷の絶対零度が広い倉庫を一気に支配していく。いまだ承太郎の傍から動かない黒髪へ向けてDIOが怒気を放てば、淡い金髪が庇うように対峙した。じりじりと焼けつく空気。互いに視線で牽制し合う中、ようやく黒髪が立ち上がり、DIOの唸りが彼を射抜く。

 「この、盗人が」
 「くそったれ野郎! てめーにだけは言われたくねェーぜッてめーよくも、おれの!」

 覆っていた雲が途切れたのか、ふっと窓から降り注いだ月光に黒髪が輝いた。窓越しながら見事な満月に照らされ、晒される男が見せる憤怒。目の当たりにしてDIOが凍りつく。呼吸さえ止めて、硬直して、その心に一瞬の隙ができたのかもしれない。

 「ジョッ」

 息を再開させた途端、漏れ出た声。DIOの目がどこに焦点を当てているのか分からなくて、どうしたのだろうと承太郎は首を傾げた。

 「あん?」

 黒髪の眉が、ぐっと顰められる。しかしそれよりも何よりもDIOが激しく動揺しているように見えて承太郎はますます落ち着かない。それでも、そんな嫌な心地も、永遠に続くわけではなく。DIOはすぐに自分というものを取り戻して、

 「承、太郎」

 金髪の守りも黒髪の怒りも擦り抜けて、承太郎を己が腕の内側に抱えている。耳元にDIOの息がある。DIOの体温がある。DIOの匂いに顔を埋められる……DIOが傍に居る。その名を呼んで、承太郎は頬を擦り寄せた。裸体をぴたりと密着させた。今のDIOは熱を孕んでいる。承太郎の肌も鱗も火傷しかねない。でも構わないと思った。DIOを感じたかった。一日会わなかっただけで募っていた寂しさをこんなにも実感させられている。外れかけたガクボウの位置を直しつつ頭へおずおずと添えられたDIOの手に、これ以上はない安心を得る。

 「いつの間におれの横を通った? とんだ吸血鬼がいたものだな。二対一でも血を見そうだ」
 「ちょ、待て、シーッぐ」
 「乱暴なシーンを見せたくねえと言ったのはお前だろう、戦いが目的じゃあないんだ」

 金髪は、なおも何か言いかけていた相棒のマフラーを掴んでそのまま跳躍する。窓硝子の割れるけたたましい音がしたかと思うと彼らの姿どころか気配すら跡形もなくなっている……残されるのは承太郎とDIO、ふたりきりだった。抱き合ったかたちでふたりとも長いこと固まっていた。

 おじいちゃん?

 ほぼ確信していながらも疑問符をつけて口の中で小さく呼んだ。聞こえていたのだろうか……DIOの腕が体に食い込んで少し痛かった。



 月明かりを道標にあぜ道を歩く。体勢が不安定にならないようにと、DIOが抱え直すたびに『抱っこ』されていることを意識しなければならず、承太郎は身じろいだ。その都度、DIOに小言を言われる。

 「貴様はやる時はやるのにそうでなきゃあとことん抜けているな」
 「てめぇんちのせきゅりてぃってやつが緩いんだぜ」
 「テレンスもミドラーも後で灸を据えるがな……貴様もだ……お前もだぞ承太郎。帰ったら躾けてやる。わたし手ずからお前の隙間を埋めてやる。みっちりと」

 夜でも美しい目に見下ろされ、承太郎は口を開いて招く。DIOが応え、引き寄せられて交わす口付けは蕩けそうなくらいに甘い。躾だの調教だの罰だのえげつない言葉を並び立てるDIOの唇はふわふわの羽毛よりも優しく繊細に承太郎へと触れていった。『優しく』などという形容詞が付く自分をDIOも恥ずかしく思ったのだろう、終いに悪態吐くことを忘れなかった。

 「マヌケ」

 やめてくれ。その声でそれを言われたら切なくなってたまらねえ。

 胸の中の恋が疼く。

 「なにを笑っているんだ。もしや貴様マゾヒストか」
 「いや……ああ、そうだぜ、てめぇのお仕置きターイムが楽しみでな」
 「おいおい」

 館まであと何キロメートルかの距離がある。DIOの脚力ならさほど時間はかからない。でももう少しだけ歩く速度を落としてもいい、と、承太郎は思う。



 「DIO……ディオ、ねえ」
 「あれは厄介な野郎だし、放っておけば危険だし、お前の孫、際どい趣味しているとは思うが、幸せそうで良かったじゃあないか。それを確かめたかったんだろう? ジョジョ」
 「それよそれ」

 それまでこめかみに押し当てていた人指し指を、シーザーの鼻先へと突き付ける。むっとする親友の鼻をつんつんつつくジョセフはミクロサイズの引っ掛かりをどうしても捨て置けないでいる。

 「お前はおれの名を呼ばなかった。承太郎だっておれの正体にぎりぎりまで気付かなくて……しかしあいつ、呼ぼうとしたんだぜ、おれを」

 ジョジョ、と。DIOは、この若き姿に『誰』を重ねて見た?

 「シーザー、リサリサのところへ行ってくれ」
 「先生に? それは構わんが、どうした」
 「もうちょい詳しく聞き直したいんじゃ……昔のこと。わしの祖父のことを」

 ジョセフは海流に揺れる自らの顎髭をさする。遥か遠くから聞こえる、孫の、愛の歌を聞きながら……形容し難い不安を感じている。



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