戦国BASARA

□宝物
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 下ろし立ての布の心地よい香りが、部屋いっぱいに広がっている。真っ白な布に覆われた部屋で、真っ白な衣を着た女中たちが忙しくしている中、屏風に囲まれた布団の上で、険しい顔をした女が一人横たわっていた。
「お市様、しっかりなさいませ!」
 傍にいた中年の女――市の世話役兼産婆――が、心配そうにその手を握った。
「市……もうだめ……痛くて痛くて……死んじゃいそう……」
 泣きそうな声で呟く市の腹は、ふっくらと大きく膨らんでいる。
「何を弱気なことを仰いますか! これからあなた様は、この浅井家の母となられるのですよ!? 長政様もご嫡子のご誕生をお待ちでございます!」
「……長政様……?」
「そうです! 長政様のためにございますよ!」
「……うん……市、頑張る……長政様のためだもの……」
 市は起き上がり、布団に膝をついてしゃがみこんだ。天井の梁に固く結んで下に垂らした布を、両手でしっかり掴んで体重を乗せ、大きく息を吐いていきみ始めた。

 一方その頃、市のお産部屋から少し離れた客室では、夫である長政が忙しなく歩き回っていた。そわそわと落ち着かない様子で、あっちへこっちへと行ったり来たりしている。
「長政様、少々落ち着きなされ。そう急いても、お産みになるのはお市様ですぞ」
 近習の老爺にたしなめられ、長政はやっと立ち止まった。
「し、しかし! 今こうしている間にも、市は苦しんでいるに違いない! 奴は体も頑丈ではない上、今回が初産……子を産む際には死ぬ者もいるというではないか……これが心配せずにいられるか!」
 長政は大声で言った後、神妙な面持ちで市がいる部屋の方をじっと見つめた。周りの家臣たちも、心配そうな顔でその時を待っていた。

「今の……長政様の声……?」
 俯いていた市が、はっとして顔を上げた。
「……そうでございますね。すぐ近くにいらっしゃるのですよ? いくらご当主様でも、さすがにお産の場に殿方を招くことは出来ませぬゆえ、傍のお部屋にてお待ち頂いているのです」
「……そう……長政様、そこにいるのね……」
 市の顔が少しだけ和らいだ。
「市……もっと頑張る……長政様のために、この子を元気に産まなくちゃ」
「そう! その意気ですよ、お市様!」
 その場の女中たちは皆、これほどまでに強い市の眼差しを見たことはなかった。いつも儚く弱々しい奥方の、母となる強さを垣間見た気がした。

「……ええい、まだか! まだなのか!? いくらなんでも遅すぎはしないか……はっ、まさか市の身に何かあったのでは……!」
 長政は相変わらず、そわそわと一人問答を繰り返していた。
「い、いいや、大丈夫だ……確かに奴は弱い……だがしかし、兄上譲りの芯の強さも持ち合わせているはずだ……ああ、何も出来ぬとはなんとも歯痒い……!」
 ぶつぶつと呟く長政に、声をかける者はもういなかった。家臣共々、皆がまだかまだかと待ちくたびれていた。

「……ふっ……んんっ……はぁ、……っんぁ……」
「お市様、あまり力まずに!」
「ん……いっ、た……ひっ……う……もういやっ……」
「お市様、お口をお開けください。これを噛んで」
 白い手ぬぐいのようなものを差し出され、半ば無理矢理に口に当てられた。
「さあ、もうひと踏ん張りでございます! 歯を食いしばってくださいませ!」
「……ん、んん〜っ! んんっ…………あっ」
 突然、全身の力が抜けた。足の間に、なにか温かなものを感じる。世話役の女が市の着物を捲り上げた。

――ほぎゃあぁぁぁ

「……お、おめでとうございます! ご嫡子ご誕生でございます!!」
 部屋の外にも聞こえるように、世話役の女が大声で告げた。市はへなへなと座り込み、肩で息をしながら、産まれたばかりの赤ん坊を見つめていた。

「い、今のは……産まれたか!? ついに産まれたのか!?」
 赤ん坊の泣き声は長政の耳にも届いていた。家臣と顔を合わせ、うろうろと狼狽えている。間もなく一人の女中が駆けてきて、長政たちのいる部屋の前で平伏した。
「ご嫡子ご誕生でございます! 奥方様共々、ご無事でございます!」
 震えるようなその言葉に、一同皆、ほっと胸を撫で下ろした。口々に、おめでとうございます、と長政に祝いの口上を述べる。当の長政はというと、安堵のあまり、ふらふらとその場に座り込んでしまっていた。
「長政様。へたり込んでいる場合ではありませぬぞ。早うお市様の元へ行って差し上げなされ」
「はっ……そうだ、市、市は……! 市ーー! 無事かー! 今行くぞ、市ー!!」
 足をもつれさせ、時に手をつきながら、長政は市のいる部屋へと駆けて行った。

 仕事を終えた女中たちがひれ伏す中、長政はようやくお産部屋に辿り着いた。息を切らしながら障子を開けると、白い部屋に、愛しい家族が待っていた。
「……市」
 横になっている市の隣には、小さな赤ん坊がすやすやと眠っていた。
「あ……長政様……」
 起き上がろうとする市を、長政は手で制した。
「そのままでいい。無理はするな」
 市は素直に従い、横になったまま、傍に腰を下ろした長政を見つめた。
「元気な姫君でございますよ」
 隅にいた世話役の女が長政に伝えた。
「そうか……姫か……私の子、か」
 長政は眠っている姫の頬を、恐る恐る指でつついてみた。柔らかく温かいそれに、自然と涙が込み上げてきた。
「市……よくやってくれた……ありがとう……ありがとう……!」
「長政様……? もしかして、泣いているの?」
「な、泣いてなどいない! ここまで走ってきたからな……あ、汗だ!」
 誤魔化す長政が、なんだか愛らしく見えた。しばらく見つめていると、長政は今度はぎょっとして急に狼狽えた。
「なっ、い、市! 貴様、急にどうした?どこか痛むのか!?」
「……え?」
 市は、自分が涙を流していたことに気が付いた。布団が濡れて冷たくなっている。
「あれ……? 大丈夫、どこも痛くないよ。……どうして……急にこのあたりが温かくなって……」
 そう言って自分の胸に手を当てた市の瞳からは、まだ涙を溢れ続けていた。
「……きっと、きっとね……市、嬉しいの……この子をちゃんと産めたこと……長政様が喜んでくれたこと……きっと、嬉しくて泣いているのね……」
 はらはらと泣き続ける市の涙を、長政はそっと指で拭った。
「……長政様……ありがとう……市に、こんなに素敵な宝物をくれて……市、この子のために強くなるわ……市が、この子を幸せにしたいの……」
 市には珍しい、はっきりとした意思の宿る瞳を、長政はとても美しいと思った。
「……ああ、そうだな。ただし、私と貴様と二人で、だ。二人でこの子を幸せにしよう」
「……うん」
 微笑んだ市の顔は、もうすっかり母親のものだった。母は強しというが、あれほど弱いと思っていた女でさえ、こうも変わるものなのか。
「母親こそが最大の正義かもしれんな……」
「……え? なぁに?」
「いや、なんでもない。市、貴様はしばらくゆっくり休め。それから二人で、姫に相応しい良い名を考えよう」
 微笑みあう二人の間で、小さな姫が愛らしい寝息を立てていた。

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