戦国BASARA

□女の幸せ
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 手に持つ杯に丸い月が浮かんでいる。夜風が酒を波立たせ、まるで海を見ているようだと直虎は思った。
「綺麗だな……」
 ぽそりと呟くと、隣の孫市も小さく頷いた。
「……ああ、そうだな」
 そのまま月ごと飲み干すように、ぐいっと喉へ流し込む。直虎もそれを真似、一気に杯を傾けた。大きく息を吐いてから酒瓶を手に取り、空になった孫市の杯に並々と注ぐ。
「おい、まだ飲ませる気か」
「……酒、強いんだろう?」
「……お前は弱いんだな」
「よ、弱くはない! ただちょっと……慣れないだけだ!」
 直虎はすでに酔っているらしく、月明かりに照らされた顔はほんのりと赤みを帯びていた。
「誘ったのはお前だぞ? 先に酔い潰れるなよ?」
「そんな情けないことはするものか。私は井伊の領主だぞ」
 言いながらも、直虎の目はもう据わっている。
「……ところで、なぜわれらを酒の席に誘った?」
 注がれた酒を啜りつつ、孫市が切り出した。直虎の方から飲まないか、と誘われるのは初めてのことだった。
「いや……特に深い意味はないんだが……その」
「なんだ、はっきり言え。らしくないぞ」
「……あの、孫市。お前に聞きたいことがあって……」
「……なんだ?」
「…………」
 何事かを言いかけたが、それでもやはり言うべきか否か迷っているのか、直虎は孫市から目を背け俯いた。下ろした髪で恥ずかしそうに顔を隠す。いつもの堅苦しい戦装束を脱ぎ、楽な寝衣に身を包んだ直虎は、どこからどう見てもただの女だった。しなやかで女性らしい体つきと、まっすぐに伸ばした黒髪からは、とてもじゃないが、大剣を振り回しながら戦場を駆ける勇ましい女武将とは程遠く思えた。孫市も同じような恰好でくつろいではいるが、こちらは着物の下に密かに愛用の銃器を潜ませている。
 黙り込んでしまった直虎を急かすこともなく、孫市はただ上空の月を見上げ、沈黙が破られるその時を待った。

「……時々思うんだ……」
 いつまででも待とうと思っていたその時は、案外早くに訪れた。直虎は自分の杯に酒を注ぎ、その手の中にまた海を作った。揺らめく月を、思い詰めたように見つめている。
「……何をだ?」
 孫市は努めて優しく促した。
「……その……私たちの生き方は、これでいいのだろうか、と……。時々、本当に時々思うんだ。名も地位も何もかもすべて捨てて……ただの女になれたら、と」
「…………」
 普段の直虎では絶対にありえないだろう弱気な言葉だった。これも慣れない酒のせいか。いや、酒の力を借りてでも吐き出したかったことなのかもしれない。
「……なぜわれらにそれを?」
「それは……お前と私が似ているような気がしたから……。女の身ながら最強と謳われる雑賀をまとめ、その頭として男共と肩を並べて生きるのは大変ではないか?お前ならもしかして同じようなことを、と思ったのだが……」
 直虎の期待を含んだ視線が孫市に刺さった。
「なぜそう思う? いつもは男など、と勇ましく息巻いているだろう」
 だが返ってきたのは同意ではなく、またしても疑問の声だった。
「……ああ。軟弱な男共にすべてを任せてはおけない。これからは乙女も世に出る時代だ。私が強い乙女の時代を創る。それは本心だ、だから名を挙げたんだ」
 手に力が入ったのか、直虎の持つ杯に波が立った。
「……先日、なでしこの一人が祝言を挙げてな。私はその仲人をしたんだ。あいつ、いっつも恐い顔をしているくせに、宴の場ではすごく……幸せそうだった。夫婦揃って幸せそうに笑ってた。これからは家に入って夫を支えると、私に挨拶に来たんだ。戦から退いてあの人の子を産みます、今度は家と家族を守ります、と……」
 語る声は、どこか寂しさを含んでいるような気がした。
「それで感化された……と?」
「そう……なのかな。いや、思い出したのかもしれないな……。私にも、あんな風に思っていた時があったから」
 懐かしい顔を思い出したからか、直虎は、手の中の月を愛おしそうに眺めて微笑んだ。
「……そういえば、婚約者がいたんだったな」
「ああ……まぁ、逃げられてしまったけどな」
 ははは、と直虎はふざけて笑って見せた。
「……女だからというだけで男に虐げられるのは許せない。乙女は男よりも強い。強くあるべきだ。男以上に前に出るべきなんだ。だが……女としての真の幸せは、好いた男に愛され、守られることなのかもしれないな……」
 杯に口をつけ、そのまま大きく喉を鳴らして飲み込む。空になったところを孫市が取り上げ、目でもう終わりだと告げた。複雑な表情の直虎に寄り添い、二人並んで月を見上げる。
 しばらく口を閉じていた孫市が、静かに語り始めた。
「……われらは男でも女でもない。われらはわれらだ。われら一人一人が雑賀衆だ。だからこそ、何にも縛られない。われらはこの生き方に誇りを持っている。例え、誰に批判されようともな。……直虎、お前もお前の思うように生きたらいい。男も女も関係ない。お前はお前だ。お前のしたいように生きろ」
 力強い言葉には、まさに雑賀衆棟梁の重みがあった。
「私のしたいように……」
「ああ。ただ、われらは自由な傭兵だ。家を、国を背負うお前とは立場が違う。なにもかも自由にはいかないかもしれない。それでも、自分の心は殺すな。男と同等に生きたいならそれでいい、女として男に守られたいならそれでもいい。もちろん両方でもな」
 横目でちらと見た孫市は、空に向けてうっすらと笑みを浮かべていた。
「……そうか……私の生きたいように……私は……」
 続きの言葉を待っていると、肩に心地よい重みを感じた。見れば、直虎が孫市にもたれかかって寝息を立てている。孫市はその寝顔を確認すると、安心したように微笑んだ。明日からは、またいつもの勇ましい直虎であってほしいと思う。
「……われらも」
 言いかけて言葉を飲む。周りに誰もいないことを確認し、直虎の寝息をもう一度聞いてから、孫市は一人呟いた。
「……わたしも、もしも先代が生きていたなら……」
 あたたかな夜風が二人の髪をさらった。

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