小説ブック

□情熱
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情熱の本能。君の手を奪って。





一、

「失礼します! あの、ネジを迎えに……あ、すみません! お邪魔します!」

 最早顔馴染みになった日向の使用人に、顔を見せるだけで容易に敷地内に入ることを許されるようになった。柔和な面持ちの中年女性に、リーは爽やかな笑顔ではきはきと宣言すると、庭を通り抜ける。
 任務の始まりが遅いと、偶にネジを巻き込んで時間まで一緒に修行をしている。任務の終わりには疲労困憊となるのだが、心地良い疲れで、リーはこれを好んでいた。ネジに嫌がられたら大人しく止めるつもりだったのだが、案外彼も乗り気なようで、毎回顔色一つ変えずに男だけの熱血修行に応じてくれている。この日も特に約束していた訳ではなかったが、きっと今日も来るのだろうとネジは屋敷の何処かでリーを待っている筈だ。
 普段なら気配を隠さずにやって来るリーに察して、ネジの方から出て来てくれるのだが、この日は姿を見せなかった。彼の居候先である日向宗家の屋敷には、度々出向いているリーだが、中に上がった経験は殆どなく、何処にネジの部屋があるのかも知らない。ならば手っ取り早く、大声で彼を呼んでみようかと立ち止まって庭から母屋を見渡す。喧しいと後で怒られる可能性も高いが、何分広大な敷地である。此処から玄関に回ってわざわざネジを呼んで来るという、まどろっこしいこともしていられなかった。修行の時間が少しでも減ってしまうのは、リーにとっては随分勿体ない事柄なのだ。

 それでは…と何も考えずに息を吸い込んだは良いが、リーは一瞬、自分の声に強面の宗主が出て来たらどうしようと恐れた。躾けのなっていないチームメイトだなどと思われてはネジにも迷惑が掛かる。やはりここは大人しく玄関から訪ねようか…と渋々庭を後にしようとしていると、視界の隅にちらりと白い装束が映った。
――ネジだ。
 母屋の庭に面した廊下に、その姿があった。閉ざされた襖の前で、ぽつんと一人佇んでいる。いつもは出迎えてくれる彼は、リーの来訪にも気付いた様子はない。特にそれを不思議に思うこともなく、リーは悪戯っぽく口の端を上げて母屋に近付いた。何だ、いるじゃないか。開放してある縁側から勝手に中に上がり込むと、古めかしい廊下を進んでネジの側に寄る。

「ネジ? どうしたんですか?」

 背中に声を掛けると、リーはネジの肩越しにひょこりと顔を出す。しかし返事はなく、静かなネジの横顔に漸く疑問符が浮かぶ。同時に襖の向こうから誰かの話し声が聞こえた。
 目の前の閉ざされた部屋から、人の気配がした。聞いてはいけないと、思ったが、意思に反して流れてくる会話を耳が拾ってしまう。
 心臓がピシリと凍り付くような感覚がした。傍にあるネジの表情を今一度リーは恐る恐る確かめる。この薄い戸の向こうで、気配を隠すこともなく淡々と語られていたこととは―――。
……ネジの、縁談の話だった。



 ネジは、まだ、17になったばかりで。いつでもリーやテンテンを諭し導いてくれる、頼もしい仲間で―――。だからリーには現実味の湧かない話だった。何か彼が遠くに行ってしまうような感覚に、その衝撃に、言葉が紡げない。
 それを、淡々とネジは聞いていた。いつも自信に溢れる姿は俯き加減に活気がなく、僅かな抵抗も見せないでいる。諦めて自らの境遇を受け入れているようにも思える。しかしこの沈んだ表情を見れば、誰しも、リーだって、それが望んでいないことなのだと分かる。

「何を、勝手なことを……ちょっとすみません!」

 頭に血が上ると直ぐに自分を見失う。お前の悪いクセだと常々ネジから言い聞かせられていたことなど都合よく忘れた。此処は戦場でもなし、それにより命を取られる心配はない。
 変に正義感を振り翳して(いや、ネジの仲間としてなら至極真っ当な判断だった)、リーは大人しく聞き入れているネジの代わりに襖を開けて中に乗り込もうとした。

「やめろ」

 鋭くだが小さな声に制止されて、それでもリーが襖に手を掛けようとすると後ろからネジに羽交い絞めにされる。襖の向こうの『企み』には目を瞑って、リーの行動には直ぐ様牽制をする。意味の分からぬ扱いにリーの不満は益々募る。ネジの未来を縛る『彼ら』を、庇う気かと、裏切られたような心持ちになる。
「だって……ネジの承諾もなしに、こんな……これで良いんですか?」
 互いに体術を極めし者。リーが踠いてもネジの拘束は簡単には緩まない。かと言ってそれ以上強まることもなかった。
 ネジは、気持ちの昂ったリーを何とか落ち着けようと、大事にさせぬようにと必死にしがみ付いていた。

「良いんだ。仕方ない」

 後ろからの声に、リーは抵抗を止めた――止めさせられた。ネジは今の言葉の通り、『諦めて自らの境遇を受け入れている』訳では決してなかった。
 リーのベストを掴んでいる手は少しも納得していない。悔しさに震えるそれはどこかリーに縋り付くようだ。儚い温もりが、悲痛な無言の叫びが酷くリーを苛んで、胸が押し潰されそうになる。
 悲しみを伝えるネジの体をリーは振り払った。しっかりと向き合う為に。咄嗟にまごついた弱気な双肩を、リーはがっしりと掴んだ。

「逃げましょう、ネジ」

 唐突なそれに、ネジは勢いをなくしてリーを見つめ返す。強かな言葉と呼応して、ミシミシと、骨ごと掴むようにリーの手に力が籠っていき、ネジが僅かに顔を歪ませた。それに気付いて、指先の力を抜いたリーは、それでも鬼気迫る様相でネジに告げた。

「ここにいたら、ネジが無理矢理結婚させられてしまいます。そんなの……君が良くても、ボクが嫌だ。ボク達でどうにもならないのだったら、もういっそ……」

 込み上げる何かで詰まらせた言葉の続きに、じっとネジは息を潜めていた。或いはもう何かを覚ったのか。冷静な色味の眼が、僅かに見開いた。
 父親を失ったネジを庇護し、その成長を見守る存在である日向宗家は、ネジにとっての強力な後ろ盾であり、時に彼を苦しめる枷でもあった。今正にリーは後者の一面を垣間見た。一端の忍であるリー、または分家出身であるネジが簡単に抗える相手ではない。
 ならば、どうする。どうすれば良い。
 縁談が不可避と言うならば。どうしてもネジが自らを犠牲にする生き方を選ぶと言うならば――。


 突っ立っているネジの手を奪って、リーは走り出した。
 それは、本能だった。もうこれ以上、ネジが傷付かないように。彼の生き方を彼に決めさせるために。
 

 為す術も無くネジはリーに伴われて日向の敷地を駆け抜けた。庭にいた使用人の女性が二人の姿をぽかんと目で追う。
 門から外に出る二人に――『外の世界』に向かう二人に“いってらっしゃい”とでも、まるで言うみたいに……優し気な目元がにっこりと綻んだ。
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