小説ブック

□情熱
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二、


「……まだ、気付いていないようだな」

 頭の中に雨音が響く。控え目な調べを壊すことなく、それにそっと乗せるようにしてネジが呟いた。これからのことに考えを巡らせていたリーが現に戻る。温い風がそよりと吹いて、鼻先に湿った匂いが運ばれる。
 降り出した雨の為に、リーは止む無く足を止めて、ネジを雨の防げる建物の下に押し込んだ。頭上に張り出した屋根に、ぱらぱらと空から零れたものが打ち付けている。控え目でいてどこか耳障りのような、身体の内側がざわざわと騒がしくなるような落ち着かない感覚は、多分リーだけが持っていた。
 遠くに霞む景色を透かして、ネジが里の方向に目を凝らしている。頼んだ訳でもないのに『悪事』に加担するようなことをする。もう肉眼では見えなくなった、今まで身を置いていた住処をじっと見つめる双眸は、離れたそれを恋しがっているのか、将又そういう訳でもないのか。一切の感情を覚らせない声でネジは言う。
――どうする?
 白眼を解除したネジが振り返る。突然里から連れ出したリーを責めることなく、何も聞くことなく、ただこれからどうするのかと単純で難しいことを聞く。それが分かっていればこんなに考え込むことはない。まだ思考は迷走したままだったが、リーは腰を上げてネジに応じた。

「出来るだけ里から離れましょう。ここも安全とは言えません。気付かれていない、今のうちに」

 ネジを見遣った至極真面目な眼は、憂いの帯びた空へと向かう。雨は逃走側の痕跡を消してくれる。寧ろ今降り出しているのは好都合と言うところだ。けれども先を見通せない不安が付き纏って、気分的に嫌なのだ。まるでネジと己の未来を、暗示しているみたいで。重苦しい雨雲が自分達の頭上に立ち込める暗雲のようだ。
 彼方ならネジが(頼まなくても)見て呉れるのだろが、自分で連れ出しておいて彼に頼りきりなのもどうなのかと思った。こんな時、リーは才能に恵まれたネジが羨ましく思えて、非力な自分に少しだけ惨めになる。彼に『ライバル』と認められて以来、以前程は、そう感じることはなくなったが。

「ここにいてください。ちょっと、付近を見てきます」
「リー」

 身を翻すリーに、初めてネジが戸惑いを見せた。今まで片時も離れず側にいたのに、ここにきて自分を一人にして別行動を取る理由が、彼は分からないという顔をする。探索ならやはり、ネジの十八番というところだし、彼もそのつもりみたいだが……リーは分かっていて、変に片意地を張った。今は逃げる立場であるし、慎重にいきたい。それに自分なら雨に濡れても風邪を引く性質ではないから。と己に言い訳して。
 オレも行く……と言い掛けたネジを、すかさずリーは押し止めた。
 動かないでください、とネジに言い残し、雨の中に消えた。





 雨脚は益々盛んになり、地面を打って、水分が浸透して緩んだ土が其処此処に泥濘を作る。大きな水溜りを避けながら、しかしもう何処を踏んでも足元がずぶ濡れになってしまうくらいになっていた。無意味な行いをリーは止めるとパシャパシャと飛沫を上げながらネジの元に戻った。
 先程よりもザアザアと降り頻る雨音が鬱陶しい。それと辺りに霧が出て些か視界が悪いのもあった。腕で顔に掛かる雨粒を僅かに凌ぎながら、ふとリーは、前方に佇むネジを発見した。

「動かないでと、言ったでしょう」

 雨は普段持ち得る忍のあらゆる感覚を鈍くする。だから嫌だったのだ。近くにいたのにネジの気配に気付かず、珍しくリーは鋭い声を出した。驚いたのかネジはその場で足を止めてしまって、その間にリーがずんずんと勇ましい歩調で近付く。わざわざ濡れないようにと軒下に立たせておいたのに、雨の中にネジはいた。

「なかなか、帰って来なかったから……」

 言い訳を漏らすネジの手を無言で引っ掴むと、リーは先程の建物の壁際にネジを押し遣る。小走りに行ったが雨脚が強く、その間にも随分ネジは雨に濡れてしまった。

「ああ、こんなに濡れてしまって……風邪を引いてしまいます」

 ぽたぽたと顔の横で雫を垂らすネジの髪に触れて、リーは無駄な肉の付いていないその頬を両手で包み込む。優しい手付きと裏腹、責められたように感じたのか、空と同じ色をしたネジの瞳が、傷付いたように翳った。雨空よりも暗く。
 リーが手を離して自身のポーチを探る。何とか濡れずに済んでいた汗拭き用のタオルを取り出すと、雫の浮かぶネジの髪に広げて被せる。何も抵抗せず、目を伏せて、ネジはリーに髪を拭かれた。頑なに目を合わせようとしない様子に、小さく息を吐き……ぎこちない空気の淀みは、リーがそっと動かした。

「……怒鳴ってしまって、すみません。心配してくれて、ありがとうございます。ただ……ボクも同じくらい、心配だったから」

 先程とは打って変わって穏やかな口調に、ネジは漸くリーを視界に入れた。今度は一心に自分を見つめ続ける瞳に、リーはまた困ってしまう。

「ね、だから、おあいこです。許してくださいね?」

 寡黙なネジは、口を閉ざしていても頭の中で沢山のことを考えているのだろう。急速にあどけない表情が微笑ましく思えて、リーは髪を拭くことに専念する。ネジの興味が逸れるようにと、少し荒っぽくタオルを擦り付けると、ネジが顔を顰めた。

 視界に被さる布地の合間から、リーの微笑みが見えた。ネジの為に怒ったりも素直に謝ったりもする。人が好く飾り気のない性格は昔から少しも変わらなかった。
 リーはネジの濡れ髪を気にしていたが、自分の方こそ酷く濡れてしまって、彼の服も髪の毛も、ネジよりもしっとりと重く水分を含んで貼り付いてしまっている。憂えたネジの指先が、そっとリーへと伸ばされる。頬を伝う雨粒を弾いて、滑らかな其処をゆっくりと撫でていると、リーの瞳に熱が籠もった。
 
 頬を滑る指先の上からリーが手を重ねた。拭き掛けのタオルをネジの頭に被せたまま、指を握り込んで動きを止めさせる。
 廃れた古い商店街は多くの店がシャッターを閉めて、付近に人の気配はなかった。
 徐々にリーの顔が近付いてネジの視界を塞ぐ。そうなることが必然だったかのようにネジは微動だにしなかった。
 絡んだ眼差し同士が触れた熱を感じ取るように、何方からともなく閉じられる。
 抵抗しないネジを背後の壁に貼り付けて、リーは顔の角度を変えながら丹念に唇を合わせた。


 重苦しい雨雲と降りしきる雨の音に、吐息が紛れる。

 はあ……はあ……と次第にネジは息を上げていく。一度触れてしまったら際限なく甘くなる唇を、リーは夢中で味わった。甘くて、甘くて、どこか切なくて、急き立てられて吸い付いても雨に紛れてしまう。誰にも聞かれないし、誰にも知られない。いつもは厳しく自らを律する、蕩け出したネジの表情は、今熱を分け与えるリーしか知らない。
 リーの濡れた髪からぽたりと雫が落ちる。ネジの頬を伝っていくそれはネジの流した宛ら涙のようだった。本当はあの時に流してしまいたかったのかもしれない。襖を隔てた向こう側で、親代わりだった親族に裏切られるような感をネジは必死に胸の内に押し止めていた。
――ネジ。
 ネジへの想いが溢れる。啄むのを止めるとリーは腕を広げてネジを包み込む。
 本当は、この腕の中に大事に仕舞っておきたかった。いついつまでも、ネジの良き理解者として、そういう立ち位置でいたかった。彼が笑うならリーも笑うし、悲しむのなら声を上げてネジの分まで泣く。それが、自分でも少し異常だと思えるところまできてしまっていた。彼をチームメイト以上に愛したいと思う気持ち。一度堰を切った想いは、止められなかった。
 背中にそっとネジの掌が置かれる。リーを『受け止めた』と言うよりもそれは宥めているようで、無性に胸が苦しくなった。
 濡れた体がネジを冷やしてしまう。元来より体を鍛えて頑丈な印象のあるネジだが、気管支がやや弱く、偶に風邪を拗らせているのを見たことがある。
 まだ包んでいたかった塊を、やっとのことでリーは諦めて、腕を緩めて彼に貼り付けていた身を離す。

――今から、大事な話をします。
 潜めた声が、雨音に紛れずにはっきりとネジの耳に届いた。
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