小説ブック

□眠り病
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 耳に慣れない言葉に、リーは己と対峙する羽織の人物を訝しく見据えた。自分が此処にいる明確な理由も、未だ謎に包まれていて、詰まる所分かり易い『説明』が欲しかった。
 必要以上に落とされた室内の灯りが、くすんだ金髪を心許なく照らし出す。窓の外に浮かぶ白い月を、背景にしていなければ、よりその表情は窺えた。それ程に『二人の間』に留めたい話なのだろう。いつも彼女の身辺を警護している暗部の忍も気配を潜めて、どうやら側にはいないようだった。夜半に訪れたアカデミーはひっそり閑と、気味が悪い程に静まっている。

「眠り病……ですか?」

 火影から呼び出しを食うなど、全く以て良くない印象ばかりだ。ガイが翻弄されているのを度々見たことがある。その為に班の演習が中止になったりもした。実力のある上忍は、影がこの上ない信頼を寄せる部下であり共に里を動かすパートナーだ。如何なる時にも無下にはできないし優先せざるを得ない。リーは中忍の立ち位置だが、どんなに残酷で惨い任務が言い渡されようと、忍の他ない己はそれに従うまでと思っている。必要とあれば、この拳で鼓動を止めることさえ―――そう、覚悟を決めてきたのだが……。
 綱手の脇には、暫く姿を見ていなかったチームメイトが、白いベッドに埋もれるように横たわっていた。

「ああ、病と言っても、そんなに深刻なものではない。文字通り昏々と眠り続ける。それだけだ」

 顰めた眉に表れた、リーの不安を読み取って、綱手は月夜に見合う声に少しだけ明るさを含ませた。ただ……と、きりが良いところで止めず、自信を持って言い切らない。その先の気懸かりを言わずして、溜め息だけが隠されずに吐かれた。
 羽織を静かに動かして、綱手がベッドに向き合う。まるで我が子を慈しむような眼差しで、枕に沈む、幾分かほっそりとしたようなネジを見つめる。目蓋を下ろすネジの寝顔はそれ程にあどけない。普段の堅苦しい威厳に塗り固めた気配がまるで抜け落ちて、酷く安らかだ。
 里長である綱手にとって、里の忍とは単なる駒ではない。自らの手足として自在に動かせる特権の裏には、彼らを護る義務がある。加えて、ネジは丁度彼女の子供位の年端だから……余計に想いが込み上げるのだ。ネジが、眠り続ける内に、そのまま衰弱してしまうのではないか、と――。それが彼女の噤んだ懸念だった。
 虚ろに瞳を曇らせて、綱手は微かに聞こえる安息の寝息に耳を傾けた。辛抱強くリーが待っていると、ぽつり、ぽつりと、紅く色付けた唇が、少しずつネジが眠る経緯を漏らし始めた。

……ネジを向かわせた付近に、濃霧が立ち込める渓谷があってな……詳しい場所は言えないが……其処の霧を長く体に浴びていると、稀に発症する。此方から働きかけて治療することは今のところ不可能だ……だが、霧に含まれる成分は自然に抜けて、いずれは元に戻る……

 暗がりをぽつぽつと飾る美々しい声音はしかし、普段の張りがなかった。忍のリーが意識を集中させてやっと聞き取れる程の控えめな『説明』は、深く寝入って起きる筈のないネジを配慮してのことだった、きっと。
 忍里に舞い込むあらゆる依頼には守秘義務がある。中には後ろ暗いものもあるし、ネジの任務内容を徒に特定されないようにと里長が心を配ることはリーにも理解できた。特徴的ではあったが、普遍的でもあり、彼女の言うその場所が何処を指しているのか見当が付かなかった。この広い世界の至る所に存在し得る。そして其処に行けば、誰でも罹(かか)ると言う訳でもなく……ネジの場合、体質が合ってしまったのだろうと、医療のプロフェッショナルは見立てる。

「待たせてしまったが、本題に入る……リー、お前に暫く預けても良いか?」
「えっ……ネジを、ですか?」

 長い前置きの後、やっと綱手がリーに向き直った。それこそが彼を此処に呼んだ理由だった。
 愚問かもしれなかったがリーは綱手との遣り取りに慎重になった。こんな夜半に人払いをしてまで内々にリーを呼び出した真意を。そしてこの自分がネジの為にできることとは――。
 綱手が黙って頷いた。諄いようなことを聞かれて気に障った様子もない。リーの求めるもの全てに対して、きっと彼女は心得ている。

「私も、いつまでも付きっきりで看てやることができない。かと言って、一人で帰すこともできないし……。ヒアシに報せるのが、妥当だとは思うが」

 唐突に出たその名に、益々リーの頭は混乱を増した。その言い様ではヒアシはこの件を知らないと見る。ネジの伯父である彼を差し置いてリーを頼った理由を―――綱手は真っ直ぐに見つめてくるリーから目を伏せて、再び声を潜めて告げた。
――……あまり大事にしたくないんだよ。
 ああいう家だろう? そう意味ありげに投げ掛けられて、リーは直ぐには分かり兼ねた。ネジの家――日向一族とは、確かに普通の家庭とは何もかも違う。
 古くから血継限界を有し、血族内婚姻を繰り返して脈々とその能力が、今世のネジの代まで受け継がれてきた……狭くて薄暗いトコロに根を張り繁栄し続けた優秀な一族。その、分家に生まれたネジの苦悩。ネジが、必要以上の接触を望んでいないのだと思われた。
 今やすっかり自立した忍として他方で活躍を見せるネジが、敵のトラップとも異なる訳の分からない自然現象により倒れてこうして綱手に庇護されている。それを、一族を纏め上げるヒアシに知られたら、彼は嫌がるかもしれない。プライドというよりは、未だに迷惑を掛ける不甲斐ない甥という立場に苦しめられて。
 それは憶測の域であったが……真実がどうであれ、この場でリーが意識のないネジの心を慮ることは多分重要ではない。今知りたいのはリーが受けるか、受けないか。首を縦に振るか振らずに此処から去るか。深く考えることなどない。最初からその二択しか求められていないのだから。その割には長い前置きであったが。
 綱手が答を催促するように、胡桃色の強気な眼差しを向ける。無論、チームメイトを見捨てるような真似、できる筈がない。綱手の眼光に怯んだ訳ではないと、意味を持たせて、しっかりとリーは彼女を見つめ返した。
――分かりました。
 ただ一言の諾の返事に、綱手の表情が和らいだ。短い眉の間に寄せられていた、難しい皺が消えて、纏う空気が随分穏やかになる。そうか……と、力の抜けた声と共に安堵の息をつくと、彼女はネジに近付いて、華奢な手で肩を揺り動かす。

「ネジ……ネジ……。リーが迎えに来たぞ。ほら……起きて一緒に帰るんだ」

 声を掛けなければ永遠に眠っているかと思われたネジは、何度目かの呼び掛けにそっと薄い瞼を開いた。綱手よりも淡い色素の双眸が、薄闇の中仄かに発光しているみたいに浮かび上がる。
 言葉を理解しているのかそうでもないのか、ただ彼女に肩を抱かれて素直にネジは身を起こした。白い着衣にさらさらと、結わえていない長い黒髪が流れ落ちる。眠気がやはり強いのかいつもよりも緩慢な動きで、表情に活気もなくネジはどこか虚空をぼうっと見つめている。

「まあ……極度に眠いだけだから、満足するまで寝かせてやったら良い。何かあったら連絡をくれ」

 完全に気が抜けた状態の、珍しく無防備でいるネジを綱手が目を細くして見守る。触れた肩をポンポンと軽く叩いて、『しっかりしろ』という意味合いで夢心(ゆめごころ)でいるネジを優しく覚醒させるが、振動で体が揺らされてもネジは反応を見せずにいる。綱手の癒しの掌から、何か元気の出るチャクラでも送られて欲しい。
『病』と言えど、特に此方が注意することもないらしく、本当にただ『預かって欲しい』という望みのようだった。指示を向ける火影へと、二度目の諾を堅苦しくリーが返した後、ネジの眼差しが声に導かれるようにゆるりと上がった。
 目覚めて間もない、何色にも染まらぬ澄んだ双眸がリーを注視する。忍の穢れなど知らないとばかりのそれは、普段の鋭気に満ちた様子もなく、視線の対処に惑ったリーは少しの間息を詰める。しかしまた、彼もネジにとっては寂しい虚空であったのか。何も言わずに、するりとかち合った視線がネジから外された。 
 
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