小説ブック

□眠り病
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「ネジ……大丈夫ですか?」

 暗い夜道をひたひたと音もなく引き返す。帰りは二人分のそれとなったが、行きの時とは何か異なる不安をリーは抱えていた。
 隣を歩くネジは口を噤んでそれには答えない。ただ一心に前を見つめて、眠りを妨げられたことに文句も漏らさずリーについて行く。ふわふわと危なげな足取りのネジに何度も手を出し掛けながら、リーは一人でオロオロとした。大体『眠り病』と言っていたのに起こして良いものなのだろうか。今頃となって綱手の判断に純粋な疑問が浮かぶが、彼女は元から人を甘やかすようなタイプではないと見る。しかしこれなら眠ったままのネジを背負って帰った方がリーとしては気が楽だ。
 物言わぬ人形のようになってしまったネジを、心配げに横目で見つつ……これも病の影響と、リーはそれから黙って足を動かした。




 アカデミーから然程離れてもいないリーの自宅は、忍の男二人の足では大した距離を感じる間もなく到着した。木造二階建ての古めかしいアパートは、里の中心部に程近いという好立地だが、その外観がどうやら新たな入居者を遠ざけていた。ただ中身は綺麗だし、格安な家賃というところに釣られて転がり込んだリーは、幽霊が住み着いていそうな特殊な見た目も味があると思って結構気に入っている。……のだが、ネジにはどう映るだろうか。思い立ってちらりと反応を窺うが、彼はやはり何を言うでもなく、錆び付いた階段を上るリーの後ろを静かについて来た。
 ドアを開けてネジを中に招くと、眠たげな眼が物珍しそうに室内を見回す。狭いだけで特に何もない部屋なのだが……それとも一体何処に連れて来られたのだと多少混乱しているのだろうか。そう感じると、左右に首を動かす無表情なネジの仕草にも、途端に可愛げが出てくる。

「大丈夫ですよ、ネジ。ボクの家です……落ち着かないでしょうが、今夜はここで休んでくださいね」

 実は戸惑っているのかもしれないネジの心を察して、にっこりと笑い掛けると、室内を辿っていた眼がゆっくりとリーに向かった。洞察力に優れたそれは今リーの何を読もうとしているのか。じいっと黙って注視してくるネジに、ん……? と首を傾げていると、ネジはいつの間にか、リーを通過してその背後の色褪せた壁を見ていた。壁しか、ない筈だ。……何を見ているのだろうか。
 ネジの視線を追って後ろを振り返ったリーは、誰もいないですよね……と確かに何者も存在しないことを恐る恐る確認して、ネジをこの家の寝室と呼べる所に案内した。客人用にと綺麗に扱っている座布団を持って来てネジを座らせると、何か飲み物をと思い立って台所に行く。冷蔵庫を開けると大量の栄養ドリンクと自家製麦茶が目に入る。それしかない。いつもの光景だ。そして後者は度々無精したリーが容器に口を付けて飲んでしまっていた為、ネジに喜ばれるのか分からないが仕方なしに栄養ドリンクを二本、この時間に片手に摘まんで戻ってくる。
 リーが寝室に戻るまで僅か、数分程度であったが、放っておかれる方はやや手持ち無沙汰になる。座布団に座らされて一人にされたネジは自主的に暇を紛らわしていた。偶々目についたのか、ベッドの下より何か引っ張り出して見覚えのあるものを静かに見つめている。白く品の良い指先が頁を捲って次の水着美女を眼に映そうとするところ、リーが血相を変えてそれを掻っ攫った。

「あーーーーっと! これは……」

 普段から忠実に片付けて、小奇麗にしているからか、却って目立ってしまったようだ。視界に入るような所に置いていたリーが悪かった。別に然程いかがわしくはないが。率先して友人に見せたくはない。
『いかがわしくはないグラビア雑誌』を颯爽と奪われて、空中で止まったままだったネジの両手がやがて膝に落ちた。突然のリーの行動に文句を言うでもなく彼の方も見ない。目で追うものがなくなると相変わらずぼんやりと虚空を見つめ出す。考えてみれば、ネジも男なのだからそんなに必死になって隠す必要もなかった。彼だって堅物で通ってはいるが、一通りこのような代物は男として目にしていて耐性もあるだろう。……いやしかし、何かネジに見知られるのは嫌だ。気持ちが落ち着かない。
 対処に困る雑誌を近くの本棚に仕舞い込むと、リーは他にも粗が出てこないかと焦心に駆られてベッド周りを慌ただしく整えた。どうやらネジを招くには下準備が必要だった。序でに寝具一式を交換することにして、ネジが心地良い眠りに誘われるようにと心を込めてシーツを張った。元々リーのベッドは、病を抱えるネジに明け渡すつもりだった。
 皺の一つ一つまで丁寧に伸ばして、単なる疲れとは異なる冷えた汗を爽やかに拭いつつ、リーはフゥ……と満足げな息を吐いた。そしていつしか自分の手元を黙って見ていたネジへと告げる。

「とりあえず……狭い所ですが、今夜はここで寝てください。どうします? 眠いなら、早速休みますか? それとも、お腹が空いているのなら……」

 冷蔵庫……の大半は栄養ドリンクが占めていたが、野菜なら少し残っている。冷凍保存している白米もあった。残り物ばかりで悪いが……簡単なおじやくらいなら今からでも作れる。そう、懇ろに意気込んで、半ば勝手にそうしようと腰を上げ掛けたリーだが……ネジが、初めて意思表示を見せた。
 整えたばかりのシーツを見つめて、僅かに首を横に振る。吸い込まれるように其処を頑なに見つめ続けて、ネジはもう眠りの世界に誘われているようだった。何も要らない。コレが欲しい。そう言わんばかりに、やっと体を横たえる場所を見付けてよろりとしながらネジが立ち上がる。リーが見兼ねて手を出したが、ネジの体は重力に逆らわずそのままベッドに沈み込んだ。
 衝撃を与えないよう、ネジの重さを受け止めた腕を、そっと彼の首とシーツの隙間から抜き取った。引き締まった滑らかな頬が枕に沈む。ネジは既に深い眠りに入っていた。規則正しく今にも止まりそうな程繊弱な寝息を立てている。数秒と経たない間に。今までリーと共に自宅まで歩いて、たった今会話らしくもないそれを交わしたばかりと言うのに、この一瞬で。
 どこか楽観的に綱手から託されたが……これでは心配する。本当に時間が経てば元に戻るのだろうか。無防備な寝顔に不穏な先行きを重ねて、リーは横たわるネジの体にふわりと布団を被せた。

 灯りを消すと、騒がしかったアパートの一室にも漸く夜の帳が降りた。草花も樹木も寝静まる夜半に、ネジの眠りを妨げる者はいない。このまま朝まで、ネジに長い夢を。日頃休めない躰を労わって、そうひっそりと願ったリーだが、少し直向きに願い過ぎてしまったのかもしれない。
 翌朝になっても、ネジは目覚めなかった。











 丸一日、ネジは一度も途切れることなく眠り続けた。朝が昼になり、陽が沈んで夜が訪れて、ぐるりと一周し再び柔らかな日差しがカーテン越しに注ぐ、二日目の朝が今朝のこと。
 例によって非番が暫く続くリーは、今日も早々に寝床(床にタオルケットを敷いただけの簡易的な)を抜けてネジの顔を見に来た。リーのベッドの中で、白眼を閉ざした『眠り姫』は特に一昨日から変わらない様子で寝入っている。実は、眠りこくるネジにと、綱手から点滴セットを預かっていた。綱手の元にいる時は主にこれで栄養を与えられていたようだが……。同じことをしようと、袖を捲って、腕を用意したものの、いざとなるとリーは尻込みしてしまった。雪のように真白なネジの肌へ、どうしても針を入れることができなかった。忍としては不甲斐ない気がする。しかし言い訳をするつもりも綱手に盾突くつもりもないが、何か最善の方法ではないとも思えた。
 意を決し、リーはネジの体に掛かる布団を掴むと、一気に剥がした。強硬策だ。

「ネジ。いい加減起きましょう。おとといから寝てばっかりで……何も食べていないじゃないですか」

 一日様子を見ていたが、限界だった。リーには珍しく、少し強めの口振りが弾けて、朝な夕な静穏を維持していた室内の空気が破られた。リーが努めて作っていたものだ。それを自ら壊した。結局『眠り』を邪魔したのは自分だ。しかしいつまでも底なしに眠られては此方が参ってしまいそうになる。ネジは意図してだんまりを決め込むことはあるも本来能動的に生ける人だ。
 声を掛けてから、加えて部屋のカーテンも開けたので、眩しい朝陽が入り込んだことも手伝ってかネジが薄く瞼を開いた。光に包まれるネジは白さが余計に際立って、目映い程に美しい。やはり傷付けなくて良かったとリーは、瞬きを繰り返して生き生きとして見えるネジに目を注ぎ、無事に覚醒したことに安堵する。シーツの上に緩やかな波を作って広がる消炭色の髪が、どこか表情に似合わず艶やかだった。
 身を屈ませてそっと側に寄ると、まだ全ては開かないでいる白眼がゆるゆると気配を辿ってリーを映す。二日前の出会った頃と寸分も変わらぬあどけなさに微笑んで、おはようございます、とリーは久しい朝の挨拶をした。
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