小説ブック

□春を愛する人
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 最後の花見から何度目かの春が巡っていった。今年も短い薄紅の時期は終わって、その後に来た桜も疾うに散ってしまった。こうして平平坦坦と何事も引っ掛かりなく過ぎ去っていく。リーの心はいつも穏やかで、寂しかった。傍でそれを感じる人がいたのなら、どんなにか気持ちが晴れただろう。





――リー。
 仄かに懐かしさを孕んだ声が聞こえた。過ぎ去った筈の春の軽やかな風が、次第に夏に染まりつつある緑の濃くなる里に緩やかに吹いた。
 決して空耳ではないことを認めつつも、若干の時差が生じてその後そろりとリーは振り返る。眩しい陽光の下に、背中の方で長い黒髪を結った青年が立っている。任務で他国に赴いたきり、消息不明になっていたネジだった。

「三年振りか。……リー。オレのことは忘れたか?」

 幽霊でも見ているかのような、相変わらず丸っこくて瞬きを止めたままでいるリーの眼にそれは微笑い掛ける。困ったように顔を傾けて、眉根に薄らと心配の念を寄せている様に、リーはゆるゆるとかぶりを振った。
 ネジのいない春を数えたことなどなかった。余計に悲しみが膨れ上がるから。そして具体的に、その空白の時を告げられて、目の前にいる人物があの頃のネジの面影と重なった。三年―――。そんなにも経っていたのか。そんなにも長い間、この里に『春』は訪れなかった。
 少し卑屈そうに口角を上げる姿にゆっくりと心が解けていった。精悍になった顔付きからちらほらと、少年の頃の名残が垣間見える。……忘れたことなどない。

「……まさか」

 喜びと、そしてもっと別の、複雑な感情を混ぜた表情をするリーに、ネジは黙って笑みを深くする。頼もしいチームリーダーの様相はそのままだ。この温かい眼差しにリーも仲間達も見守られていた。遠い記憶の中の、いつかの花見。

「何だか……逞しくなりましたね」
「お前は益々濃くなったな」

 打てば響くが如く軽妙に返されて、リーはやっと笑うことが叶った。今まで押し込めていた分まで声を出して、出して、眦に小さな涙の粒が生まれて汗でも拭うみたいに腕を擦り付ける。それを、馬鹿にするでもなく真面目な顔付きでネジは見つめて……リーにあるものを見せた。

「……ちゃんと届いた」

 見慣れぬ黒装束の懐から、ネジが小さな紙片を取り出した。長方形の、指の丈にも満たない程のもの。薄紅の花弁がその所々、風に吹かれるように趣深く散らしてある。
 木ノ葉の春の便り。いつかリーが手紙に添えて送った杏の花枝を、ネジは押し花にして閉じ込めていた。可憐な花の色が、リーの心遣いが、いつまでも色褪せないように。
 紙に貼り付いた淡色の花弁は、よく見るとその端々から少しずつ茶褐色に変わり始めていた。それでも大事に持っていた。木ノ葉に咲いた杏の花弁を手土産に、ネジは再び故郷に舞い戻った。

「良い香りがした。里のことを思い出した」
「ふふ……懐かしかったですか?」
「ああ」

 瞼を閉じて、ネジがそっと紙を鼻先に近付けるのをリーは穏やかな気分で眺める。花の匂いを楽しむ子供染みた所作は、指の先まで洗練されていて美しい。その脳裏に浮かぶものを邪魔をしないように見ている。懐かしい匂いに満たされた後、真珠のような白眼が瞬いてリーを射止める。お前のことを、思い出したと、無言で語るような瞳に何も言えなくなってしまう。もう胸がいっぱいだ。これ以上に欲しいものなんて何一つない。湧き上がったこの気持ちごと抱き締めて『君が大切です』と告げたい。ネジがいない間中、ずっと狂おしい程想っていた。
 

 至上の想いを込めた、リーの心からの歓迎の声に、ネジは綺麗に澄んだ白眼を目一杯綻ばせた。
 鮮やかに茂った緑の葉を靡かせて、二人のいる木ノ葉は今、春風が止まない。



【おかえりなさい、愛する人】
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