小説ブック

□curry
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 ぐつぐつと(あぶく)を生み出す鍋から、野菜の煮える素朴な匂いが立ち上ってキッチンを満たす。箸でつついてみると、じゃが芋や人参などはもう軟らかくなっているようだ。御玉杓子で、肉や野菜から滲み出た旨味を除けて灰汁だけを捨て、頃合いを見て、火を止めて砕いたカレールウを入れる。掻き混ぜている内にとろみが出てきて、徐々に重たく具材に絡み付いてくれば、その体裁ができ上がりつつある。もう慣れたものだ。
 独身男の料理のレパートリーはそれ程豊富にはない。だから何も難しい技術は必要ない。具材を炒めて一緒くたに煮込んでしまえば良いので、質よりも量を取る世の彼らにはこれは専ら定番料理だった。殊更、ネジの場合……食べてくれる人の好物となれば、自ずと振る舞う回数も増えた。
 小皿に少量掬い取ってピリリとした異国の辛味を口に含む。工程はいつも通りだし材料も特別変えていない。問題なしに、奴に喜ばれる出来だろう……と北叟笑むところだったが。
 舌に絡んだルウの名残をよく味わうように口蓋に擦り付ける。何か物足りない。眉間に不可思議を浮かべながら、ネジは側に置いてあるカレールウの箱を手に取った。

「しまった……間違えたか……」

 特にお高い物でもない、この間スーパーで買い求めたカレーの箱を見つめて愕然とする。よく見るといつもの品とはパッケージの色合いが異なっていた。何故このような間違いをしたのか分からない。しかしもう作ってしまった。蓋を外したままの鍋からは尚食欲をそそる良い匂いが広がって、多分それに引き寄せられるように、直にリーが戻ってくる。

「んん〜、いい匂いです……もしかして、今日のお昼はカレーですね?」

 そう、多分こんな風に。と思っていたら想像ではなく本当にやって来た。リビングのドアが前触れなく開いて、鼻をくんくんとさせている彼の横顔が見える。このあからさまな匂いではもうばればれだ。リーの嗅覚は確かで疑問形の推理はご名答であった。今更隠すことは不可能だろうがそれでも一瞬、ネジの手が鍋の蓋を閉めようと働く。しかし其処には持っていても仕様がないカレーの箱が収まっており、コレもどうにかしなければとまごついている間にリーがキッチンに回って来た。
 首から男臭く手拭いを下げて、仄かに湯気を纏ったリーの体は、湯上がりであった。休日も真面目くさって修行を怠ることなく、今日も早朝から外に出て有り余るエネルギーを独りで発散してきた。そして帰宅して、まだ真昼間であるが、余りにも汗だくなので食事の前に湯を浴びて来いとネジに言い付けられたのだった。
 先程は追い払われて寂しかったのか、今度は石鹸の香りを漂わせて嬉しそうに堂々とネジの側に寄って来る。まるで飼い主に甘えたがる飼い犬の如し。ちゃんと綺麗にして来ました、みたいにアピールしてくるおかっぱ頭をよしよしと撫でてやりたい衝動に駆られるが、ネジの手には行き場の分からないカレーの箱が収まっている。

「ネジの作るカレー、すごくおいしいので……ボク大好きなんです」

 鍋の中のとろりとした色味、その正体にも気付かず、やっぱり当たりだと言わんばかりにリーは目を細める。深い茶色の中にぽつぽつと浮かぶ大きめに切られた具材はいかにもリー好みのものだ。
 屈託のないその笑みにじわじわと罪悪感が募った。彼にとっては待ちに待ったネジ手作りの昼食だ。おまけに好物とある。これでは糠喜びさせているようで申し訳ない。

「……リー、実はな」

 意を決して重い口を開いた直後、あっ、ボクも盛りつけ手伝います! と爽やかにかわされる。余程うきうきしていると見る。半日近く使って扱いた体は多少は疲れている筈なのに、炊飯ジャーの前にひらりと身軽に移動するリーの姿にネジは何も言えなくなった。言い出し掛けて微妙に開いたままの唇からは、ただ数分先の前途に消沈して溜め息が零れる。
 空気の読めないリーの無邪気さによって、“種明かし”はまんまと食卓へと持ち越された。











「……何でしょう……今日のは、お子様カレーですか?」

 向かい合って座る食卓テーブルの、向かい側から送られる実に不思議そうな視線に、ネジは観念していた。一口含んだ後の、開口一番の尋ねに、彼が味覚も確かだったことを再認する。

「……すまん。間違えて甘口を買ってしまった」

 突然の告白にリーは真ん丸の目をずっと丸くしたまま瞬きもせずにいる。自らのカレーに手を付けずに悪そうに目を伏せるネジの姿に何を感じているのか。折角大好物のカレーなのに、やはりショックを隠し切れないのだろう。いや、これはリーの好む物ではない。それとは似て非なるもの。リーの好物は飽くまで“中辛”だ。

「あまくち……ああ、道理で……ふふ、なるほど」

 ぼんやりとネジの言葉を唇で辿って、急にふわりと食卓の空気が緩んだ。―――否。


 最初から二人の空間は何にも縛られてなどいない。
 一人で悔やんで消沈していたのはネジの方だった。
 リーにとっては笑ってしまう程、それは些細なことだった。


「そんなことで謝らないでくださいよ。ネジにもそういうこと、あるんですね」

 思い悩んでいたのがばかみたいに、リーは朗らかに笑ってネジの失敗を優しく包み込んだ。いつもそうだ。繊細故に尖った部分を持つネジを、リーは大きな愛でまあるく包み込んでくれる。素直にそれに甘えられるくらいには、ネジもなりたいものなのだが……やっぱりまだ後悔が残った。
 呆気ない程に会話を終わらせて、蟠りを抱えるネジを他所に、熱々のカレーライスをリーは美味しそうに口に運ぶ。余程空腹だったのか、それとも余程に美味しいのか、辛くもない筈のカレーライスを口の端を汚しながら豪快に呑み込んでいく。
 ほら、食べましょう、とスプーンを運ぶ合間に誘われて、浮かない顔のままネジもスプーンを手に取った。掬い上げたカレーライスを実に詰まらなそうに食べ始める姿に、凛々しいリーの眉が人知れず曇ってしまう。まだ若干尖っている気配のネジを案ずるリーは、口元を拭うと何か思い付いたように食卓テーブルを離れた。
 端から食事に集中していなかったネジが、それを目で追う。ガサゴソと冷蔵庫を何やら物色しているリーは、飲み物でも取りに行ったのかと思われた。そんなに引っ掻き回しても、何もないぞ……と、他人事のように眺めていると、何故だかキムチを手にしたリーが戻って来る。
 ネジの前で蓋を開けて、仄かにツンとした匂いを放つそれを、迷いなく自分のカレーに乗せる。そして自然な流れで、ネジのカレーにも勝手に山盛りに乗せてきた。唖然として言葉を失くす。異色のカレーライスから目が離せなくなったネジを置いて、リーは自らキムチを混ぜ込んでそれを食べ始めた。

「んっ! これ、いけます」

 頬をぷっくりと膨らませて、木鼠宛らの様相でそう宣言すると、リーは脇目も振らずにカレーを食べ進める。ほら、食べましょう、とモゴモゴと動く口元から誘いを受けて、気後れして手を出せないでいるネジも、これしか食べる物もなく仕方なくスプーンを握り直した。

「うまいな」
「でしょう?」

 半信半疑で口に運ぶと、成程これは後を引く旨さでリーと顔を見合わせる。コクのある甘口のカレールウがキムチの辛味を包んで円やかにする。しかも程良く舌にピリッとした辛さもくる。絶妙の選択だ。 

「キムチとカレー、結構合うんですね」
「お前……知らないで入れたのか」

 カレーを運ぶ合間にボソリと告げられて、ネジとしては結構衝撃が走った。合うか合わないかも分からず実行するとは何とも無謀だ。しかも人の分にまで。そういうことは自分が試してから勧めるものだ。幸い双方の相性は抜群であったが。冷めた視線を遣りつつ、ネジのスプーンはその間も足繁くカレーに通う。それ程にリーが発見したカレーライスは美味しかった。
 真面目でありながら、一緒にいるネジをぐいぐいと引っ張ってくれるリーの思い切りの良さ。そんなところもまあ嫌いではない。嫌いではないのだ。そう思う辺り、カレーを仲良く食べる二人の相性も良さそうだ。

「ネジ。良かったら、また作ってくださいね。是非あまくちでお願いします」

 話を全く聞いていないようで、ネジの気難しい反応にも臆せずリーはグッと親指を立ててくる。だから大丈夫。自信を持ってと。君の作るカレーライスが大好きですと照れ臭い視線をお見舞いされてはネジの心も忽ち解けてしまう。
 こうして失敗も細やかな幸せに変えてしまう。尖った気分もいつの間にか丸く。リーはとても心憎い。


……気が向いたらな、と。
 悔しいから素直には言わないが。次に作る時は自分の意思で甘口を選ぼう。誰かの為に作った料理にはちゃんと気持ちが籠もる。

 もう全てが丸く収まっている気配の、微笑み混じりの食卓に、“おかわりお願いします!”と、とびきり明るい声が突き抜けた。




(了)

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