小説ブック

□宝石
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 目の前に差し出された、包帯の手の中に、きらりと零れる光がある。鍛錬を止めて徐に此方に近付いたリーの意図が、ネジにはこの上なく分かり兼ねた。いや、分かろうとしたくなかった。何も分かりたくない。一体これは何なのだ。徐々に確立する予感に白を切る。というのも、普段から黙考する癖のある頭がどうも思い至ってしまうのだ。確かにネジは他の誰よりもリーとは親密な仲にあるが……これは、頭を抱えたくなる。

「……オレは男だぞ」

 眉を顰めて、不審に歪めた顔付きで、やっと絞り出したのが、それだった。リーの掌には、尚も煌煌と輝く小振りなペンダントがある。
 それが自分への贈り物なのだと、男としてのプライドを圧し折られながらネジは読み取った。男が首飾を身に付けるのは、控え目に言ってもネジの中では可笑しい部類に入る。取り分け、これはどう見ても『女物』の外見をしている。

「分かっていますよ。でも、ネジなら似合うと思うんです」

 分かり切ったことを言い出すネジの内心の憂いなどリーには届かない。ただネジとは正反対な爽やかスマイルをお見舞いする、その顔は自信に満ち溢れている。いや、だから、似合うとかではなく。というかそれはどういう意味だ。もっと根本的なところでの齟齬が両者の間に生じている。例えば逆の立場だったらどんな気分になるかと問うてみたいが、リーには特に面白がっている節はない。ただ本気で、ネジに似合うのだと、ネジの常識を遥かに凌駕する思考で信じ込んでいる。熱心に此方を見つめ続ける、くりくりとした一方通行な視線が、痛い。そのまま黙り込んでしまったネジの、不機嫌な兆候を察したのか、リーは勢い付いて捲し立てる。

「いえ、君に女装させようとか、そういうことじゃないんですよ。ただ、君は男のくせに、顔立ちが綺麗だから、こういうものをつけたらとても映えると思って……いえ、女々しいとか、ばかにしているとかそういう意味ではなくて。もっとボクは純粋にですね」

 話の渦中にいるネジを、置いてけぼりにして、リーの巧弁は怒涛の勢いで続く。師匠譲りの濃ゆい眉に、情熱の焔を滲ませており、引火すると危険だ。そんな仕様もないことを考えるくらいには、ネジはリーの話を聞いていなかった。恐ろしく煌びやかに飾り立てたリーの賞美は、勿体なくも全て、放心しているネジの頭上を通過していく。女っぽいのではなく、ネジは『美人』なだけ。要約するとそんなようなことを真顔で語っているが、ネジの懸念は何一つ解消されない。男であるネジにはやはりリーの思いは理解できない。美人とはなんだ。顔か。顔でオレを選んだのか。遂にはそんなやさぐれた心境に至って、知らずとそれが外に現れていたのか、すらすらと流れていたリーの弁がぐっと呑み込まれた。じとりと疑念の籠った白眼を向けられているのに気付いて、幾らか冷静さを取り戻したようだ。背中に燃え広がっていた碧い焔が、自粛して緑色のタイツの中に引っ込んだ。
 
「あ……う……どうしても、イヤだと言うのなら……いいんです」

 今度は肩を落として力なく告げる。どうやらネジの冷やかな目付きに怯んで説得を諦めたようだ。元々冷淡な印象を与える白眼にそうされると本当に恐ろしい。
 見るからに消沈した哀愁漂うリーの姿に、ネジの心がしくりと痛む。折角厄介ごとが去ったというのに、自分でも驚く行動にネジは出てしまう。
 不意に音もなく白い指先が近付く。掌に寂しく乗ったままの、ペンダントの細かな鎖が、鉤の形に曲げた爪先に引っ掛かり静かに攫われた。

「…………つけてみるだけだ」

 シャラリと繊細な鎖が持ち上がって、リーの掌から僅かな重みが消える。袖がふわりと退くと、仄かな甘さを孕んだネジの匂いが漂った。多分、リーしか知り得ない。
 勘違いするなという意味を持たせてか、捨て台詞の様相で呟くネジは、眉間に現れた皺が著しい。どうやらリーの粘り勝ちのようだ。素直ではないが、存外にネジは情け深い男だ。その有難い慈悲に、悲しく萎んだリーの心が癒されて、ゆっくりとまた膨らみ始める。
 空になった片手を、何となく握って、リーはネジの挙止を見守った。口を挟めば気が変わってしまうかもしれない。一瞬で壊れてしまうような、どこか危うげな空気が流れる中、ネジの指先が鎖の小さな留め具を外す。息を詰めて眺めるリーの、望みに逆らわず、ネジは顔を俯かせると首の後ろに両手を持っていく。重たげな黒髪の中に手首が消えて、そこで器用に見えなくなった留め具を手探りで留めている。襟元の髪が持ち上がると、普段は隠れた首筋が露わになって、何とも目が離せなかった。
 そうしてネジの鎖骨に、鎖が緩く凹凸を作る、細波の飾りができた。中央ではリーの贈った、小指の爪ほどの小さな宝石−菫青石(きんせいせき)−がささやかに華を添えている。首元を縁取る鎖は少々女物で窮屈そうに見えた。だが、リーにはそれが―――。

「……やっぱり、似合います……すごく綺麗です」

 何か、気の利いたことを言いたかったが、それ以外の言葉が、出てこない。青と紫の中間のような、静謐な美しさが際立つ、別名ウォーターサファイア。リーが、ネジの為に見立てた。まるでリーの前に舞い降りた、幸福を運ぶ青い鳥。どちらかと言えば、それを与えたい立場であるリーだったが……今はどうしようもなく己へと齎されるのだ。むすりと押し黙った頬が、幾らか隠せずに赤らんでいる。眉間に浮かぶ皺だって、照れ隠しと思えば、こんなにもチャーミングで――――リーにはまるごと、まるごと愛しい。
 ネジ……と吐息を忍ばせて、リーが顔を寄せてくる。飾り気のない修行着の下で、ネジの鼓動がとくりと鳴った。

「……いくらしたんだ?」
「そんなこと、知ってどうするんです」

 腰を軽く引き寄せられて、誠実でどこか官能的にも感じるリーの声が、直接ネジの脳に響いた。このような空気がまだ少し苦手なネジは、リーの気を逸らそうと、知りたくもないこの贈り物の価値を聞いてみる。しかし些細な抵抗など無意味だった。ネジの謀など軽やかにかわして、リーの唇が、既に熱を帯び始めていたネジの頬に戯れ出す。ひょっとして、それが狙いだったのかと、思い及ぶくらいには、自然だった。綺麗な宝飾を纏わせて、しおらしくなったところで仕掛けるなど……リーらしからぬ智謀だ。
 まだ、鍛錬の最中であるのに、リーの唇は益々甘くなってネジを翻弄する。その内滑らかな頬を辿るだけでは、飽き足りなくなったか、柔らかな互いの唇を合わせようと、鼻先が近付いた。ぶわりとネジの肌が色付く。リーに腰を支えられていて体を捩ることができない。それでも、もう殆ど抜け落ちていた、なけなしの思考を掻き集めて、何とかネジはフイと顔だけを逸らした。
 詰まりはリーをやんわりと拒絶した。リーを視界に入れずに、耐え難い羞恥にネジは睫毛を伏せてじっとしている。その事実に、リーは少しだけ残念そうな表情をして……唯一侵攻を許された朱色の頬に、もう一度だけ名残惜しげに口付けると、そっと身を離した。

「でも、良かったです……もらってくれるんですね……? ほっとしました」

 まだ幾らか甘さの残る声音で、リーはだが本当に嬉しそうに笑みを浮かべた。何が『でも』なのだか良く分からない。不満でもあるような言い振りだがリーは時々ネジに多くを求め過ぎる。結果的には奥手であるネジの気持ちを優先して、このように折れてはくれるが……まだ当分は、有難いその気遣いに甘えさせて貰うことになるだろう。
 さてしかし、ネジは一言も『貰う』とは言っていないのだが。首元にはきらりと光るブルーのペンダントが我が物顔で居座っている。別に外そうと思えば外せた。けれど、何一つ無理強いはしないようでいて、この男に上手く誘導されている自覚があった。リーは丸め込むのが本当に上手い。約束を取り付けるみたいに柔らかい口付けを贈って、そんな風に言われたら、もう今更返し難いではないか。

「返品するのも、面倒だろう。だから、引き受けただけだ。勝手に用意されても困る」

 今しがた顔を真っ赤にして、リーの至近で大人しくしていたあれはひとときの夢だったのか。憮然としたいつもの表情で可愛げもなくネジはそっぽを向いている。刺々しい言い様にそれでも場の空気が凍り付かなかったのは、確かに黙って微笑みを湛えたリーのお陰だった。

「ありがとう」

 信じ難い響きを含んだ言葉に、リーが丸っこい目を瞬きもせずにいる。ネジとしては言い慣れない為か硬く、そしてあまりにぎこちなかった。こういうのは自分らしくないかもしれない。だが言い切った。リーの想いの深さに、時々は応えてみても良いかもしれない。そう思ったから。

「言っておくが、間違ってもオレに、女装趣味などはないぞ。だが……何だ、貰ってやる」

 断わる理由は明白だが、それでは受け取る理由は何なのだろう。口では上手く説明できなかったが、依然として目を背けたままの突慳貪(つっけんどん)で優しくないネジの物言いに、リーの表情が見る見る明るくなり、和らいでいく。きっと何とか伝わってくれた。何よりネジもこの宝石も、しっとりと馴染む互いの存在を受け入れていたから。他でもないリーからの、心の籠ったプレゼントだ。……受け取るしかないだろう。

「……はい……はい。分かっています」

 ネジの精一杯の『お返し』に、感極まったようにしてリーは何度も頷いた。安上がりな性分が垣間見えて、大袈裟だと言ってやりたかったがネジはもう口を閉ざしてしまった。それよりリーに釣られないようにと、緩んでいく頬を必死に抑えていた。自分こそこのような小さな石ひとつに、舞い上がったりして、随分安上がりだ。









「またボクの前で、つけてみてもらえますか?」

 長い中断を挟んでそのまま昼休憩に縺れ込んだ午後。弁当箱を片付けたリーが、黙々と腕の包帯を巻き直しているネジに問うた。折角贈った青い宝石は、鍛錬を理由にあの後ネジが素っ気なく外してしまった。今はネジの腰のポーチに、大事に仕舞われている。青い鳥、似合いだったのだが。けれども何処かへ飛び立つこともなく、ネジはリーの隣に当然のように収まっている。

「気が向いたらな」
「気が向いた時でいいです」
「できれば向きたくないな」

 またまた。リーがくしゃりと笑ってネジを小突く。おい揺らすなと、包帯がずれたネジは静かにリーを窘めるがその口元は僅かに綻びている。
 恋人と言うには程遠いけど。まだまだ鍛錬に汗臭く塗れて、その合間に木陰でこのようにふざけ合っていたい。そんな関係が良い。
 
 さらさらと流れる緑の木々の合間から、真昼の眩しい光が零れる。
 軽快なふたりの掛け合いは、これからも穏やかに、季節を色取っていく。




(了)

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