記念小説

□コロン
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 頭を軽く下げて、暇を告げると、慣れた足取りでネジは玄関へと向かう。日頃から気配を消して歩く癖がある為、床の僅かに軋む音さえしない。建物の古めかしさから言えば些か不自然かもしれない。ネジには自然なことだったが。
 鍛錬に向かう途中、日向宗家に寄って簡単な用事を済ませてきた。目当ての人物にも会えて、その足で書斎を尋ねて書を開いているヒアシにも顔を見せてきた。
 屋敷の中は粛然とした静けさが漂う。元から喧しい所ではないが、平日の昼間ともなれば大方の人間が出払っている。
 そうして誰とも擦れ違わずに玄関へと戻って来た。先程脱いだ自分の履物に足を入れている最中、ふとネジは靴箱の上にある物が目に入って顔を上げる。来た時には気付かなかったが、こんな物あっただろうか。淡い桃色と濃いそれをした、細長いスプレー缶のような物。ヒナタの忘れ物だろうか。
 ネジが尋ねて来た時、ヒナタと会って、入れ違いで彼女は玄関から出て行った。色合いからして女子の持ち物のようだ。多分そうだろう……頭の中で察しながら、ネジは何か惹かれて缶を手に取る。ネジの掌にすっぽりと収まる大きさだ。触れた途端指先がひんやりとする。冷たい円柱をくるりと、掌の中で転がしてみると、その表面に、躍動する難解なアルファベットに混ざりながら、読み取れそうなカナが振ってある。
――ヘアーコロン。
 と、書いてある。恐らく髪につける……コロンとは何のことだろう。文字の下にはイラストもあり、艶やかに靡く女性と思しき亜麻色の髪に、バラの花が散らしてある。香りづけ……例えば香油のような位置づけの物だろうか。
 そう言えば、偶にテンテンからも花のような香料が漂ってくることがある。今まで大して気にしていなかったが、女は皆、このような物を使うのだろうか。洒落に頓着しない、況して男のネジには分からない。

 ふとドアの脇を見ると、壁に鏡が取り付けられている。出掛けに身嗜みを再確認する用途だろう。ネジがそろりと踏み出すと、頭から胸元辺りまでの自分の姿が映り込む。髪も、貌も装束も、白と黒で出来たように淡泊で、まるで色がない。
 自らの面白くもない顔から視線を外して、下に辿っていく。頬の脇を通って、鎖骨の下まで真っ直ぐに伸びた黒髪に目を遣る。特に、それを自惚れることはないが、リーはこの髪をよく褒めてくれる。彼も癖のない黒髪だが、あちらは短く切り揃えていて、さっぱりとした印象だ。
 鏡を見つめながら、跳ねずにすとんと落ちる毛先に、指先を持っていく。リーは、ありのままのネジを受け入れてくれているが、やはり清潔で小奇麗な方が好きなのだと思う。

 髪に、手間を掛けたら、もっと、綺麗だと言ってくれるだろうか。思う間に、さらりとネジの指から毛先が擦り抜ける。いつも自分を真摯に見つめてくれる、黒目勝ちの眼を思い浮かべれば、淡い期待が胸に宿る。トクリ……と緩やかに鼓動が鳴った。
 嵌め込まれた鏡に映る片手が、持っていたスプレー缶の蓋をゆっくりと開けた。


――シュ。
 一瞬だけ風が起こって、顔の横の黒髪が舞う。そして直ぐにすとんと元に戻る。思ったよりも人工的な香りだ。豪奢なバラの絵に何か期待してしまったが、これとは程遠い。それどころか、むわりと、スプレーした甘い香りが玄関に籠もって、咽そうだ。思わずネジが眉間に皺を寄せる頃――――はっと我に返った。
―――馬鹿なことを。
 直ぐに蓋をして、ネジは元通りの場所に缶を収める。鏡に映った自分と少しだけ視線が合って、直ぐに顔を背けた。かっと、頬が僅かに熱を持ったようで、己の浅ましさに恥じ入る。
 男が髪に香りなどつけて、何をやっているのだろうか。これから、鍛錬だと言うのに―――弛んでいる。
 甘ったるいバラの匂いが染みついている気がして、顔を顰める。むしゃくしゃして、ぞんざいに髪を手で払うと、ネジは漸くガラリと玄関のドアを開けた。

























「ネジ、今日は遅かったですね」

 足音もさせないのに言い当てられて、ネジは少し返事に惑う。体術しか取り柄がないと以前自分で嘆いていたこともあるが、彼は十分に忍向きだと思う。忍にとって大事なのは技の大小ではなく、己の身を守り生きて帰る為の察知能力だ。
 此方を見ようともせず、不乱にリーは片腕立て伏せをやっている。フッ、と息を吐いて、地面と腰の後ろに置いた手を軽快に変える。ネジを待つ間中ずっと続けているとしたら、優に1000回は越えていると見る。タフなリーの疲労は表情には表れないから、何とも言えないが。

「……少し、宗家に寄っていた」
「ああ、なるほど」

 返事に妙に得心したのか、それとも手を変えることにも飽きてしまったか、リーは片腕の屈伸を止めると、足を引き寄せて軽やかに着地する。話し相手が出来てそれ以上無心になって続けることもないと思ったのか。将又話をする為に律儀にもネジの顔を見に来たのか。すらりと伸びた足を動かして、リーが側に寄ってくると、暖簾のような前髪の間から僅かに汗が浮かんでいるのが見える。当て推量だったようだ。これは5000回はやっている。

「いい匂いがします」

 何の前触れもない、そして当たり障りのない言葉に、ネジはしかしどきりとした。特に鍛錬後の空きっ腹に喜ばれるような、香ばしい匂いのする弁当などは持参していない。この日は元より午後からの集まりだったので、持って来る必要もなかった。
 何でしょう、お花畑みたいな……とすんすん鼻を鳴らして、リーが匂いの元を特定しようとしている。先程そんなような香りを髪に振り掛けていたネジは、硬直する。このままでは……不味い。リーに知れたら、変な趣味を持っていると思われる。焦りの感情に突き動かされて、ネジは咄嗟にぐるりと体の向きを変えた。香りがこれ以上飛ばないようにと、香料を振り掛けた髪をそっと指で押さえて、胸の鼓動が落ち着くのを待つ。

「何かつけました?」

 空中を彷徨っていたリーの意識が、自然なことのようにネジに向かう。内心でギクリとした。背後から、いや、顔の直ぐ横と言っていい程の至近距離から彼の声がして、耳元に低く響いたそれに息を詰める。鎖骨の辺りに置かれた、髪を押さえるネジの手元を、じっと見据えているような……何か耐え難い視線を感じる。
 いや……と、弱々しくネジの唇から零れたのは、問いに対しての否定でも何でもなく、内心の狼狽が頼りなく現れたものだった。気付けば後ろから、緩くリーの腕が回されてネジは更に身を硬くする。リーの吐息が、バラの香を閉じ込めた髪に徒に掛かり、首筋に甘美な震えが駆ける。ここまで傍に来てしまえば――、もう、『特定』されたも同然だった。

「これじゃ……女の子みたいじゃないですか……いやですね………他の男に目つけられたら、どうするんです。ただでさえ君は、目立つのに」

 男のネジから漂う花の香りを、ばかにするでもなく、寧ろそれに吸い寄せられたリーは『蜜蜂』だった。そっと引き寄せられた体に、切なくリーの力が籠もっていく。誰にも、取られないようにと。己を盾にしてネジの存在を隠してしまうかのように、抱き締めてくる。
 それが、些か責められているように感じた。リーの腕の中は温かくて、強い力の中にも労わるような配慮を見せてくる。だから余計に胸が締め付けられて苦しい。自分が浅はかなことをした所為で、リーを悲しませてしまった。
 リーが齎す罪の意識と優しさの狭間で、身を縮ませながらも、………すまん、とやっと小さく謝るネジに、リーは黒々とした独占欲を即座に引っ込めた。

「いえ……良いんですよ。すみません、ネジ。そういうつもりでは。でも……どうしてこんなこと?」

 知らずと力の籠もっていた腕から力を抜いて、リーはそっとネジに窺う。振り返らなくても、いつもの気軽明朗なリーが其処にいることが分かった。緩やかに腕に抱かれて、知った温もりに包まれてネジは安堵を覚えつつも、リーは穏やかな口調で核心に触れてくる。どうして髪に匂いをつけたのだろうと、純粋に不思議がっている様が伝わってきて、返答に窮してしまう。リーから見ても、ネジのしたことは『普通』と呼べる範囲から遠ざかっている。
 だが、リーは笑うことはしなかった。それどころか有難いことに、『嫉妬』をしてしまう程に深くネジを好いてくれている。
 だから、リーだったら、受け止めてくれるだろうか。『本当のこと』を言っても、気味悪がらず、変わらずに好きていてくれるだろうかと。――ネジは仄かな期待を、静かに口にした。

「……リー、に」

 不意に呟いた声に、リーは容易に気付いて顔を寄せる。耳と耳を合わせる程に、近くにいって、その先を聞き届けようとすると、ネジが躊躇うように俯いていく。
 はい、と返事をして、リーは言い掛けたそれをなかったことにしなかった。強要することなく、けれども喋り出すまでいつまでも気長に待つ。微風に揺れる香を纏った髪が、柔らかくリーの頬を擽った。バラの花弁がしなやかに滑るようだ。

「綺麗と…………言われたから」

 少し強い風が吹いて、ネジの頬に掛かる髪がさらさらと靡いていく。露わになったソコは、既に淡く紅色に色付いていた。必要以上に伏せた繊細な睫毛が、瞬きの度にふるりと震える。
 リーの言葉が、嬉しかったから。だからもっと『綺麗』でいたら、もっと褒めてくれるだろうか。
 そこまでは語らずとも、皆までは言わずとも。しかし『そう言われたい』と望むいじらしいネジの心が。リーにはちゃんと届いた。

「……何だか……にやけます…………可愛いです、ネジ」

 これ以上ないくらいに羞恥に支配されて、口籠るネジが、ただ。
 ぎこちなくも素直にこうして愛を表現してくれるネジが、リーは愛しくて堪らない。こんなに純粋なネジに比べれば、先の下らぬ独占欲など、本当に醜いものだ。

「ああ、いえ、気を悪くしないで……そういう意味じゃ、ないんです。君が大好きだってことです」

 黙り込んだネジに察して、リーは速やかに先手を打った。『可愛い』と『綺麗』は、似て非なるもので、紙一重の表しだった。リーには悪気がなくともネジにとっては、少々子供っぽい言葉だったかもしれない。……ネジとしては、実のところ羞恥を煽る為のものでしかなかったのだが。『大好き』と、その口が告げる甘い響きに、更に頬の赤味が増して、益々二の句が継げなくなってしまって下を向く。

「ネジが望むのなら、何度だって……言いますよ。言わせてください。何度言っても足りません。君への愛で溢れて」

 リーは時々、舞台俳優のような気障なことを言う。あまりにもストレートに伝わるそれに、一々胸をときめかせてしまう自分も、自分なのだが。もう開き直った。
 それなら、言って欲しい――と。ネジは後ろの温もりに無言で強請る。何度言っても足りないのなら、その声を直接、耳に掛けて―――。ぴったりとこの身に閉じ込めて、仕舞うから。一つも零さず、仕舞うから。


―――綺麗ですよ、ネジ。
 少しだけ此方を振り返ったネジに、リーは耳の側で聞こえるように囁いた。
 無骨で優しい指先が髪を愛でる。何度もその艶やかさを褒めながら、柔らかく撫でて、梳いて、絡ませて、赤味を帯びた頬と一緒に撫でつける。

「君の髪が、大好きです。だから、良かったら……ずっと大切に、伸ばしてくださいね」

 飽きずに髪を弄る手元から、色濃いバラの香料がいつまでも香り立つ。人工的だと思ったが……リーと一緒にいると、こんなにも香細(かくわ)し。いっそのこと二人で埋もれてしまいたい。


 返事の代わりに、頬に添えられたリーの掌に、くたりとネジは顔を寄り掛けた。
 大切にする。ずっと大切に。もう無暗に手で払ったりなどしない。
 愛でてくれる人が、ただ側にいるのなら――。


 ネジはこの先もきっと、長い髪を貫くだろう。




(了)

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