過去作品ブック

□甘い夢
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 衝動的に、合わせた唇は、甘美だった。
 触れたことのない柔らかさにリーは全てを忘れ、陶酔していく。
 小鳥がついばむように、軽く押し付けては離した。端麗なネジの寝顔に、唇の感触に、胸が甘くなって、やがて大胆に触れていく。
 ネジの眉根が、ピクリと僅かに動いた。構わず口付けを送り続けるが、起きる気配はない。色素の薄い、ネジの仄かに色付く、紅梅色の唇が、リーが離れた隙に酸素を求め、少し開く。しかし健気に息を吸おうというそれを、リーは上から塞いだ。

「……ん」

 苦しさに、呻くのを、触れた唇で感じながら、ふっくらとした甘さにリーは酔い痴れる。
 あからさまに、ネジの呼吸が乱れていく。口付けの合間に、酸素を求め、だが噎せ返るようなその応酬に小さく呻いて、眉間に皺を寄せる。投与された薬の所為か、ネジは目覚めなかった。暫く触れ合い、顔を離すと、ネジは荒い息をする。
 はあ……はあ……と喘ぐ口元は、だらしなく開いており、どこか淫らに誘うようだった。顎に手を掛け、そっと押し下げると、歯列が窺え、更にその奥にある紅い舌を見付ける。ぽっかりと開いた口内に、リーは再び近付いて……くちゅりと音が立つと、唇を合わせ口内を貪る。

「……は……はぁ……っ」

 無意識にネジの舌が、リーを押し返す。呼吸を確保しようと、自己防衛的に、それが奥に引っ込む。しかしリーは、更に唇を深く合わせ、執拗に逃げた舌を追い掛ける。合わせ目から、苦しげな、そしてどこか艶やかな、ネジの吐息が漏れる。

「ふ、は……っ……」

 終わりの来ないキスに、薄紫色がゆっくりと開かれた。ぼうっと、夢の中を揺蕩っているような、焦点の合わないそれは、ややあってリーを見つける。

「……リー……?」

 吐息混じりに、名を呼ばれ、その通りに縺れ、動く舌を一層絡めた。ああ、離れたくない。このまま、ネジと共に溶け合ってしまいたい。そうすれば、彼が無暗に傷付くこともないだろう。
 ネジはボクのモノだ。誰にも、誰にも渡さない――。

「……っ……どうした」

 唇も口内も、唾液塗れにされながら、ネジは只そう言って、リーの肩を震える手で掴んだ。いつもより優しく、力ない声音は、戸惑いながらもリーを気遣っていた。
 いいように口内を犯されながら、それでもネジは拒まなかった。苦しくて置いた手は、それ以上リーを押し返さない――その力がないようにも思える。甘く息を弾ませ、トロンと蕩けた瞳を、リーに向ける。
 綺麗な薄紫が、今までにないくらい近くで、自分を見つめている。今、自分だけを映している。その事実に、リーは高鳴る鼓動を抑えきれなかった。

「ん……ネジ……あぁ、好き、です……」

 蕩けるようなキスにのせて、自分の上擦った声が、聞こえる。
 ああ、何を言っているのだろう。ボクは、何を―。

「ネジ……好きだ……キミが好きだ」

 熱に浮かされたように、繰り返し告げた。ネジの喪失感と共に、もやもやと自分の中に渦巻いていたもの。チームメイトとして、これまでも好きであったけれど、改めて口にしてみるととても切なくて、彼で満たした心が疼いた。
 漸く顔を離すと、ネジとトロリとした糸で繋がっていた。
 呼吸を落ち着け乍ら、ネジは分かっているような、何も分かっていないような、何方付かずな顔でリーを見つめる。未だ夢と現実の間を彷徨うような彼は、キスを止めたリーに、何か、告げようと、唇を動かした。

「―――」

 リーの眉が、切なく顰められた。包帯の巻いた指を、彼の唇にやんわりと置き、言わせなかった。何も、聞かない方が、良い。
 自分が、どんな想いで、愛を告げたか。
 ネジには、きっと、分からないから。 

「……起こしてしまって、すみません………お休みなさい」

 静かな病室に溶け込む、小さな呟きは、ネジに届いたかは、分からない。変わらずにネジは、澄んだ薄紫でぼんやりとリーを見上げる。只、濡れた唇を、指で拭ってやり、あやすように白い額を撫でると、睡魔が降りてきたようだ。ゆっくりと、瞬きを繰り返し、やがて瞼が閉じていく。

「………すみません」

 ネジに、聞こえないくらい、小さく小さく、そう告げて、布団の外に出ていた腕を、仕舞った。
 自分を映さなくなった、閉じた眼は、今、何を映しているのだろう。幼少期に、父親と森に出掛け、兎を追い掛けたのだと、楽しげに話してくれたことがある。出来ればそんな夢を、見ていて欲しい。
 唯それだけを、リーは願った。

























「朝から精が出るな」

 からりと晴れた空は、涼しい風を運んでくる。早朝の空気は、清々しく、もう半刻も休みなく体を動かしているが、殆ど汗も掻いていない。
 訓練場で一人、剛拳の型を作っていたリーは、固めた拳を振るのを止め、声の方を向く。少し離れたところで、おはよう、と此方に投げ掛ける人物。目を細めて自分を見る、元班員の姿に、リーは丸い目を更に丸くした。

「……おはようございます……あの、もう大丈夫なんですか?」

――ネジ、と。
 数日前には、青白い顔だった彼を、呼ぶ。色白なところは変わらずに、だが先日とは違い、生き生きとした血色の良い頬をして、ネジは訓練場の片隅から歩み寄る。

「ああ。別に、元から大したことではなかったのだが……聞かなくてな」

 すっかり回復した様相で、苦々しく笑みを零し、杞憂なのだと、ネジは肩を竦める。それは、自分の知らない“チームメイト”のことを、言っていた。如何やら存外に、ネジは新しいチームメイト達に、大事にされていたようだ。治療を渋り強がるネジを、無理に入院させ、安静を強いた。
 自然に、リーは微笑い掛けてくるネジから、視線を下ろした。散々だったと、詰まらない入院生活を振り返るネジが、何か楽しげに見えた。自分の入り込めない世界に、彼はいるようだった。
 黙り込んだリーに、そうだ、これ、とネジが思い出したように片手を出す。

「お前が、持って来てくれたのだろう? 退屈だったから、助かった」
「ああ……いえ……」

 見たことのある物が、ネジの手に収まっていた。差し出されるままに、それを受け取り、リーは手元に戻ってきた文庫本を眺める。特に流行りの小説という訳でもなく、知れた作者という訳でもない。表紙にあるコーヒーの染みが、何だかみずほらしかった。

「……オレは、ずっと……眠っていたらしいな」

 リーの持つ本を、同じように見つめながら、ネジは己に問い掛けるように、ぽつりと漏らす。何分、眠っている間の記憶は、ないから、薬で眠らされていたのだと、目覚めて初めて知ったのだろう。
 ネジの眼は、本から離れなかった。聡明な双眸に、映される古本が、今更無性に嫌になった。何故、こんなものを、貸してしまったのだろう。もっと他にも、小奇麗なものが本棚にあったと言うのに。
 只、ネジは別にそれを、好んで見ていたい訳でもない、何か逡巡するような様子だった。
 暫し、沈黙が続く。ネジの口が開かれるのを、黙ってリーは待った。

「……三日前………リーが見舞いに来た時………何か、したか?」

 一瞬、息が、止まった。
 静かに、声を押し出したネジの、平常時の白眼が、ゆるりと上がり、此方を注視する。
 あの時、少しだけ目覚めた彼、自分の告げた愛の告白が、リーの頭に浮かんだ。それを、彼は少しばかり覚えているような……そんな、口調だ。
 返答に詰まるリーを、どこか不安そうに、ネジは見つめる。縋られるような眼差しに、リーはやっと、固い声を押し出した。

「………何か、とは?」

 動揺を、覚られぬよう、殊更ネジ相手なら、細心の注意を払って、逆に問い返した。何も知らない真っ新な頭で、聞いたとすれば、ネジの問いは、具体性が省かれている。それを、やんわりと指摘され、ネジの眼が、静かに地面に落ちる。何もない足元を、見つめて、見つめて……結局、彼はそれには答えなかった。

「……いや、いい……何でもない………可笑しなことを聞いた」

 取り繕うようなネジの微笑が、リーの胸を密かに痛めた。しかし、これで良い。あの日のことは、夢だと、思っていれば良い。あの甘く官能に溺れた、口付けも、切ない愛の言葉も、全部、全部なかったことに。

「じゃあ、な……そろそろ行く。邪魔したな」

 気心が知れた仲と言うのに、ネジはリー相手に、律儀に襟を正した。他人行儀なそれを感じ、もう、引き止めることが出来なかった。彼には、彼の生きる“場所”があった。そこに踏み込んでは、ならなかった。ネジはもう、第三班には、戻って来ないし、此方の勝手で連れ戻すことなど出来ない。自分達とは別の、優しいチームメイト達に囲まれて、これからは生きていく。

「はい……また」

 それでも希望を込めて、再会したいと思った。ネジが遠くに旅立っても、自分たちの絆が、途切れてしまうことはない。密かな、細やかなリーの希望に、ネジは、ああ、と微笑って、小さく頷いた。
 この温かく育まれた絆を、大切にしたい。お互いが忘れない限り、ネジとの繋がりは続いていく。自分の吐露した“想い”は、この手中にある本と一緒に、彼から突っ返されたのだと、思えば良い――。


 遠ざかる背中が、見えなくなるまで、リーは見つめ続けた。
 馴染みの白い装束が、やがて視界から消えると、何度も読み込んだ、お気に入りの文庫本を、穏やかな面持ちで眺める。そう言えばこの表紙の染みは、カレーであったなと、急に思い出した。食べるか読むか、どちらかにしろと、いつの日か、傍で小言を言っていたネジの声が、聞こえるようだ。


 滲み出る笑みを、噛み締めるようにしてから、リーは顔を上げた。オッシ……と小さく気合を入れ、本を傍に置き、鍛錬を再開する。貴重な“朝練”、少しも無駄にすることなど出来ない。
 努力は人を裏切らない。この師の教えを実証するのは、ネジでも、テンテンでもなく、先ずは自分でありたい。

 早朝の訓練場に、清々しい雄叫びが響いた。
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