過去作品ブック

□撫子
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女でもあるまいし、花が似合うと言われて喜ぶ心は持っていなかった。
無骨な恋人へと花を差し出し微笑む人は、どこまでも純粋で正直だ。

包帯の巻かれたその清廉な指先が、選んだと言うのなら。
花を向ける人が、己にとっての最愛と呼べるのなら。

たった一人が似合うと言ってくれる、この花になりたかった。
無骨な己には可憐過ぎる、このちいさな花に。


だけど、だけど……ネジは少し、繊細で傷付き易かったのだ。








「どうしたんだ? それ」

 非番というのに、立ち寄ったアカデミーで偶々出会した班員を見て、首を傾げる。彼も何か個人的な仕事を抱えていたのだろうか。
 ネジの声に気付いて、艶のあるおかっぱ頭が振り向き嬉しそうに破顔する。その腕には、小さな花のついた鉢植えが丁重に抱えられていた。

「ああ、これ……さっき向こうの、北向きの窓辺に置いてあるのを見掛けまして……可哀想に、萎れてしまっていて……」

 ネジの側に歩み寄り、そう言ってリーは瞳に少しの憂いを乗せ、白い花を見下ろす。五枚の花弁の、先が細かく裂けて、羽毛のように毛羽立っている、ネジには見慣れぬ外見をそれはしていた。鉢の中で寄り添って、可愛らしく咲いていると思っていたが…そう言われてみれば、幾分元気がないようにも見える。

「何でも撫子は、日の当たる、風通しの良い場所を好むそうで……あ、と言うのも、今そこでいのさんに会ったのですが……これから外の花壇に、植え替えに行くところです」

 男にとっては少々疎い、花の名を、簡単に言い当てて見せたリーは、また正直に種明かしをする。自分だって、何か、用があって足を運んだのだろうに、困っている“花”を見過ごせなかった様子だ。“植え替えに行く”――と言うには、スコップの一つも持っていないし、安易に己の手で土を弄るつもりなのだろう。

「……そうか。ご苦労だな」

 鍛錬に通じた、胼胝や擦過傷だらけの手と、そこに大事そうに抱えられた、小さく健気に咲く花をネジは見た。拳を作れば、その辺の木を薙ぎ倒す程の威力を持つことを、知っている。その手は強かで優しい。日陰に置き去りにされていたようだが、この手に見付けられた花は幸運なのだろう。もう直ぐ外気を感じ、恋しかった陽光を享受出来る。
 一途な班員の思い遣りに、ネジは微笑みを浮かべて、その労を静かに労う。するとリーは何を思ったか、鉢の上の方についていた花を手折った。そしてそれが、ネジに差し出される。糸のように細い茎を、やはり慣れぬのか、包帯の指先がどこかぎこちなく摘まみ持っている。よく、意図が分からないが、釣られるようにしてネジは手を伸ばし、それを受け取った。羽毛のように裂けた花弁を、何を思うでもなく見つめていると、リーが告げる。

「白い撫子、君にぴったりですね」

 至極控え目な、愛の言葉に、ネジは花から顔を上げる。偶に、こんなことを言うのだ。花のように可憐で美しいと、言葉の裏でひっそりと譬(たと)えられたことに、ネジは容易に気付いてしまった。リーの爽やかな笑顔に、淡くネジの頬が染まる。

「……また、そんなことを……」

 若干、もじもじとして、いじらしく撫子を摘まみ持ち、ネジは目を伏せてしまう。照れ屋なネジの性格を、心得ているから、リーはそれから何も言わず、微笑むだけだった。しかしそんな笑みにも、擽ったさを感じてしまい、ネジは左右に視線を泳がせる。
 己の前だけで、不意に見せてくれる、孤高の天才の恥じらう姿を、リーは目を細めて見つめる。こんな反応をしていては、彼もまた“愛している”と、リーに告げているようなものだった。白い頬に差した朱色と、己の渡した撫子を指先でちょこんと持つ姿の、何と可憐なこと。まだ言い足りないネジへの賛辞を、苦労して呑み込んで、暫く頬染める様子を眺めた後、リーは暇を告げた。

 それでは、とにこやかに言って、鉢植えを抱えて去って行くリーを、やっとネジは目に入れる。リーの視線が、恥ずかしくて仕方なかったのだが、いざいなくなってしまうと残念なような、複雑な心持ちだった。遠ざかる背中を、少し寂しげに見送った眼は、やがて手元の撫子に注ぐ。
 リーに貰った、その指先に愛されて救われた、小さな白い花。“ぴったりですね”――そう言われた声が耳から離れず、ネジの胸を淡くときめかす。抓んだ茎を、くるりと回して、ネジは苦笑する。こんなに可憐な物を持たされて、何をやっているのか。くるくると五枚の花弁を回して花と戯れる様子は、まるで恋に恋する少女のようだ。しかし事実、そんなようなものだと思う。恋人になってからも、リーは変わらずにネジに接してくれて、でも時々優しくて、いつまでも初恋のときめきが続いてしまう。
 花を贈られて、こんなに嬉しくなるのは、お前にだけだよ――と。白い撫子に凛々しいリーの面差しを重ね、ネジの頬が、少女のような柔らかさで緩む。空を隠していた雲が晴れて、廊下の窓から日差しが注ぎ、そのまま姿が白く透けてしまうようだった。萎れ掛けていた撫子も、心なしかネジを見上げてその手の中で微笑むようだ。

 一頻り、温かな陽光に身を委ねた後、ネジはそっと窓辺を離れた。
 何か、この日はこのまま別れたくないと思った。
 沈着さを身に着けた筈の忍の足取りが、溢れる気持ちを抑え切れず、何だか弾むようである。後を追い掛けていったりしたら、驚くだろうか。ネジの口元に小さく笑みが零れる。
 鍛錬でも良いし……この麗らかな日和の中、ふたりでふらふらと散歩をしても良い。決して多くを望んではいない。ネジは只、リーともう少しだけ同じ時間を過ごしたかった。それでこの手が持つ花にまた譬えられて、照れるようなことがあっても、良かった。

――リー。
 まだ遠くへは行っていなかった背中を見付けて、ネジは呼び掛ける。呼び掛け、ようとして……ネジは言葉を呑んだ。
 廊下で何やら立ち止まっている、リーの側には、見知らぬくノ一がいた。




 弾むように軽やかだった足は、床に吸い付くみたいに重くなって、其処から一歩も動かなくなった。
 優しい指先が、白い撫子をくノ一に差し出す。ああそれは、ネジだけのものなのに。その花もその指も。太陽のようなリーの微笑みを享受して良いのは、ネジだけの筈、なのに――。
 少女の嫋やかな指先が花に触れる。ネジに似合いの白い花に。リーが、静かにネジへの愛を湛えた可憐な花に。ネジの時と同じようにして、少しぎこちない包帯の指先を朗らかに笑いながらリーは引っ込めた。
 何を話しているかなど、分からない。音など聞こえない。只、花を摘まんで嬉しそうにはにかむ少女が、ネジの胸を酷く締め付けた。人当たりの良いリーの笑みが、“君にぴったりですね”と、何となく言っているみたいだった。
 唇を噛み、ネジは手元の花を握り締めた。リーが、今度はあろうことか鉢ごとくノ一に差し出している。それが“切っ掛け”だった。彼の恋人は、自分であるのに。ネジはもう周りを顧みる余裕がなかった。戸惑う感情を通り越し、瞬間的にカッとなって、気付いたらリーに向かっていた。


「見損なったぞ、リー……!」

 凛とした声に呼ばれ、否、咆哮(さけ)ばれ、リーが驚いたようにネジを振り返る。いつもは清く澄み渡った眼が、興奮の為に薄らと赤味を帯びて此方を見据える。沈着なネジに於いては、稀に見る姿だった。その、身内相手に、白眼を発動し兼ねない危うさに、何が起こったのかとリーは目を見開くばかりだった。

「お前は誰にでもそんなことをする奴だったのか、この女誑し!」
「えっ……え?」

 人の往来するアカデミーの中心で、大声でそう叫ばれて、リーはぱちくりと瞬きをする。真実に、真丸の眼には疑問がいっぱいに浮かんでいたのだが、その恍けたような反応が余計に気に食わなくて、ギリギリとネジは切歯した。壊れる程花を握り締める白くなった指先に、憤るネジの変化の方に注意がいってしまい、リーは気付かない。その指先に、激情の裏にひっそりと、切なさが込められているのに――。

「ま……待ってください、ネジ」

 急に踵を返して、背中を見せるネジを、リーは急いで追い掛けた。逃げる背中に近付くと、だが振り切るように駆け出され、リーも後を追う。
 体術の秀でた者同士の、追い掛けっこ。速さは同等のものだった。そのように、リーは思っていた。……一体どこに、今まで力を隠し持っていたのか。黒い髪の束を跳ねさせる、白い背中を捉え、手を伸ばした。けれども触れる前に、ネジが一段と加速して、見る見る内に詰めた距離が開いていった。鍛錬の時にも、こんな身の熟しは見たことがない。

「ちょ、ちょっと、ネジ……!? 待って……」

 背後でリーの声が聞こえるが、ネジは全力で駆けて、その場に置いて行った。もう何も聞きたくなかった。
  
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