過去作品ブック

□撫子
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 アカデミーの内と外を、どれ位複雑に駆け巡ったのだろうか。リーを巻く為に、ネジはわざと手間を掛けて滅茶苦茶に進んだ。珍しく感情的になっていたのだが、その辺りは妙に冷静だった。気付いたら、追うのを諦めたのか、リーの気配がしなくなっていた。周囲を警戒しながら、ネジは歩みを緩める。巡り巡って、結局ネジは元いた場所近くに戻って来ていて、ぽつん…と、一人になっていた。彼の話など、聞きたくない筈だったのに。追い付いてもくれない。それもまた悲しかった。
 大体、本気で追い掛けるつもりなら、手足の“枷”を外せば良いのに、リーはそうしなかった。そして実力を見誤った故に、易々とネジを取り逃がした。
 その程度の存在だったのだ。ネジの存在など、この花のようにちっぽけだった。
 ふと手を持ち上げてみると、駆けている間も、固く離さずに、花が握り締められていた。そっと指を開いてみると、少し茎が潰れて傷んでいた。可哀想に、根を失った上にここまで来てしまったら、養分も摂れず、後はもう寂しく萎れるだけだろう。
 今度は柔らかに、指先の温かさに包み込むように。花を掌に乗せて、ネジは潰れてしまった茎を懇ろに撫でる。――八つ当たりをしてしまった。折角綺麗に咲いていたのに。花に罪などないのに――。ネジの顔が悲しく顰められた。
 端整な口元が歪んで、視界がじわりと滲んでいく。ネジに連れ回されて、傷んで元気のない花弁の輪郭が、どんどんぼやけていく。
 ヒアシの後釜にと、日向の重鎮らに密かに囁かれている、柔術を誰よりも理解し極めていたネジだったが、その実本当に“内側”が脆かった。それ程に好いていた。
――君にぴったりですね。
 そう、言ってくれたのに。







「……ネジ」

 瞳に溜まった涙が、ぽろりと落下する寸前に。そっと目を伏せるネジを、彼は見つけ出した。
 忍の癖に息を切らして、少し離れた所で立ち止まるリーは、薄らと顔に汗を浮かべている。やはりまんまと、ネジの周到な策に嵌められて、多分アカデミー中を駆け回ったのだろう。
 それでも、辿り着いた。痕跡など、一切残さなかったのに。ネジのように、追跡に長けた忍でもないのに。
 目の前にいるリーが、不思議で、だがそんなことは噯(おくび)にも出さずに、ネジはリーを睨み上げる。涙はもう引っ込んでいた。リーを視界に入れた途端、自然に臨戦態勢となる。

「何だ」

 弱々しく震える声に、精一杯の強がりを乗せて。ネジは平静を装った。機械のように絞り出されたそれに、震える内側の何かを感じ取ったのか否なのか。リーは少したじろいだようにして、ネジの顔を窺う。

「いえ……何か君は、誤解をしているのではないかと。ボクは決して、女たらしなんかではないですし……それ以前に、ネジ以外に、興味はありませんし……」

 憮然としたネジの態度に、気後れしていたようなリーだが、その瞳に迷いはなく凛としていた。普段から生真面目で、ふざけることのない男である。真摯に此方を見付めて、彼は本当のことを言っているのだと分かった。しかし、それなら。それならどうしてと、ネジの心に疑念が生まれる。
 リーの心からの声に、ネジは何か考えるように黙り込む。ふとその手の中に、小さな撫子が握られているのにリーは気付く。しかし何かを感じるまでもなく、そっぽを向いて、目を逸らしたまま、暗く沈んだ声が“花”と言った。

「はい?」
「……花を……渡して、いただろう」

 忍の持つ“五感”は、常人の域を超える。任務を熟していく内に自ずと発達するものだった。リーもまた同じで、研ぎ澄まされた聴覚が、僅かに漏れたネジの声を聞き逃すことはなかった。しかし意図の分からぬ単語に首を傾けると、ネジはそう言い直した。
――花。
 脳内で声を反芻して、リーは再びネジの手元に視線を移す。

「あれは……撫子の花を、褒められたので……何だか目を輝かせていたので、欲しいのでしたら、どうぞ、と……どうせ、誰の物でもないようですし……ああいう方なら、大切に育ててくれるかと……」

 自らが置き去りにされた撫子を差し出したのは、二回だけ。その一方であるネジからの問いに、リーは二度目に差し出した相手のことを包み隠さずに話した。疚しいことは、何もないので、それが彼への誠意になると思った。だが――。ちらりと眼を上げたリーは言葉を呑んだ。

 ネジが、酷く悲しげに顔を顰めて、此方を見ていた。憤慨していたと思われた、いつもは清らかな眼は、清らかなまま、只底知れぬ悲哀を浮かべていた。
 音もなく、しずくが一つ、そこから落下した。



「ネジ、ごめんなさい」

 急にリーがそう言って、ネジの側に寄ってくる。
 涙はその間も、静かに白い眼から零れ落ちていく。そのひとつひとつを慈しみ、全てを掬い上げるようにして――――リーは真摯に言葉を紡いだ。

「もう、やめますから。ごめんなさい。もう花をあげたりなんか、しません。君以外には、あげません」

 悲しみを含んだ滴る雫のその意味を、リーは解した。それは普段能面のような表情が多いネジの、感情が、静かに現れたものだった。

「ネジ……ボクには、誓って君だけです。本当です。もし、信じられないと言うのなら……ボクのこの目を見てください」

 俯いて啜り泣くネジの肩に触れて、しっかりとリーはネジを見つめた。固く誓いを立てるリーをおずおずと濡れた白い眼が見上げる。白と黒が交わる。真逆の色味は華やかさこそなかったが、その分美しい対比だった。この黒い瞳は、真実しか告げない。下手な嘘はつかない、と言うか騙す技量をリーは持ち合わせていない。それを、ネジは知っている筈。だが偽りのないリーのその漆黒が、却ってネジを怯えさせてしまったのか――、少しだけ交わった視線はするりとネジから外された。拒絶されたと言うより、今のネジには困惑を与えてしまったのかもしれない。リーは僅かに顔を顰めて眼差しを下げた。逸らされた“白”を、それ以上強引に此方に向かせることは出来なかった。ネジの頼りない肩に、辛うじてその両手は残った。
 ネジの涙は止まらなかった。リーの俯いた視線の先に、それはほろほろと無残に落ちた。その、落下する場所をリーは見た。少々濡れているネジの白い手元には、やはりあの花が握られていた。
 雫が落ち、それでも健気に花弁を維持する撫子が、ふるりと震える。ネジは離さなかった。
 唯それだけが真実とでも言うように。それしか信じないと言うように。リーが何の気なしに贈った花を頑なにネジは握り締めていた。
 本当は嬉しかったのだろうに、照れ屋で不器用なネジは感情を表に出せない。受け取った撫子を見て頬を緩ませることも出来ない。だからその後に自分を追い掛けて来たことを思い出して、泣きたい気持ちになった。何かを、言いに来たのだろうか、しかしネジは第三者に花を渡しているリーをそこで目撃してしまった。考えなしな自分に心底苛立つ。同時に込み上げた愛しさを抑え切れず、リーは衝動のままに震える花ごとネジの体を引き寄せた。

 ネジが、ちいさく息を吸った。しかし抵抗はせず、大人しくリーの胸の中に収まる。そうする気も、起きないのだろうか、優しさと罪人の意識で力加減が分からず、中途半端に抱き寄せた体は、あまりに脆弱だった。これ程までに弱った姿を今まで見たことがあるか。芯があって気丈なネジを泣かせてしまったことはとても罪深い、罪深いのだ。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ネジ」

 男にしては華奢な身体を抱き締めて、リーはそれしか言わなくなった。きつくもなく、緩くもなく、只しっかりと回された腕の中で、ネジが少し心配して背中に触れた。そうしながらも未だ続く啜り泣きが、リーをまた気遣わせる。

「ネジ……泣かないで……ね? お願いします……お願いですから……もう泣かないで」

 切なさに詰まらせた声で、リーがそう懇願しながらネジの頭を何度も撫でる。そういう其方こそ泣きそうだと、思ったが声が喉を通ったら無様な泣き声になってしまいそうで言わなかった。
 リーの背中にしがみ付きながらネジは声を殺し大粒の涙を零した。こんなに温かな人なら、大丈夫だと思った。自分の全てを委ねたい。確かに傷付けられてしまったけれどもそれ以上に大きな愛情でリーは包み込んでくれた。包帯の巻かれたその清廉な指先が選んだと言うのなら。花を向ける人が、己にとっての最愛と呼べるのなら。それで良い筈だった。それだけで良い。リーが他の誰に花を贈ろうと今この手の中には彼がくれた本物の愛がある。そして“君にぴったりですね”などという胸を蕩かせるような言葉は、きっと、今後一生、ネジにしかくれない。
 頭を撫でてくる掌の懸命さが擽ったくて愛しかった。泣き顔のネジの口元が少しだけ、ほんの少しだけ柔らかく綻びる。
 正に撫子の愛らしさ。
 誰にも知られずに、リーが譬えた通りの美しさで、“花”が微笑った。








 くたりと体から力が抜けて、寄り掛かってくるネジの背中をリーは緩やかに撫で続けた。嗚咽により跳ねていた体がやがて、波が引くように徐々に収まっていくからほっとする。リーの背中に腕を回して、控え目ながらきゅうとベストにしがみ付いているネジは、意外なことを言った。

「………こんな女々しい男は、嫌だろう」

 掠れた、小さな小さな声に、リーは思わず手を止めて、横にある顔を窺う。ネジは少し気まずそうに俯いて、リーの肩に口元を埋めていた。……今更、泣き出したことを悔やんでいるようだ。
 ああ、そんなところが堪らなく可愛いのに。ネジは分かっていない。リーの腕の中に大人しく収まって、こんなにもいじらしいことを、ネジは言う。しかしそれを指摘してしまえば、また機嫌が悪くなるのが分かっていたから、リーは拗ねている塊を今一度力を込めて抱き締めた。どうか伝わって欲しい。この腕の包むものが、大切で大切で仕方がないということ。

「嫌なわけ、ないでしょう……嫌だなんて……お願いだから、そんなこと言わないで……ボクが君を嫌う筈、ないでしょう」

 さらりと顔の横に流れる黒髪に、そっと頬擦りして、リーは身体を離してネジと見つめ合う。分かっているのか、いないのか、間近でかち合った眼は緩慢に瞬きをして、ぽうっとしている。それだけなら、無邪気なものなのだが、泣いて赤味を帯びたネジのものが、今は痛々しかった。
 まだしっとりと濡れているその瞳をあやそうと、リーは指先でネジの頬を撫でた。心地良い感触に、うっとりとネジの目が細められる。桃色に近い唇の隙間から、ほう……と芳しい吐息が漏れて、リーの掌に掛かる。その感覚に、引き寄せられるようにリーは一度も触れたことのないネジの唇を見た。ぷくりとした、弾力の良さそうな瑞々しいそれが、リーの視線に恥じるように、左右に引き結ばれる。
 頬に触れていたリーの手がするりと移動して、顎を持つ。何かを目論むようなリーの静かな眼差しに、ネジは息を詰めていた。話をするだけなら不自然なくらい近くに、その顔がある。しかし……それ以上距離を詰めることはなく、リーはネジから離れた。顎に触れていた手も同じだった。
 きょとん……とするネジの前で、視界の外に落ちたリーの手が、撫子に触れた。びっくりして、思わず緩めた指の中から、花が持ち去られる。貰ってから、一度も離さなかったそれが、再びリーの手に戻った。手折られても尚、凛と花弁を携えるのをリーは見た後、傷んだ茎をプツリと折った。

 丸く開かれたネジの眼に、(がく)から上だけが残った白い花が映る。折った茎がリーの手から落下する。残った“花”の部分――もうリーの手元にはそれ以上ない、たった一輪だけ残った撫子は、ネジの艶やかな黒髪に咲いた。

 ネジの髪から手を引っ込めて、リーは満足そうに微笑んだ。たったそれだけなのに、涙顔のネジが華やぐから不思議だ。撫子とネジの御髪。白と黒の真逆の色味は華やかさこそなかったが、その分美しい対比だった。もうネジの為に、存在する花なのだろう。そう言い切ってしまえるくらいには、似合っている。


 その名の由来は、“撫でたくなる程可愛らしい”。
 その通りにリーは、我慢できずに、撫子の挿した滑らかなネジの髪を優しく撫でる。指先に込められた、そこから溢れ伝わる慕情に、蕩けるくらいにネジの瞳が潤んでいった。

 話をするだけなら不自然なくらい近くに、リーの顔がある。頬染めたネジの黒髪を撫でながら、リーが距離を縮めた。一瞬怯えて目を瞑ったネジに、額に嵌め込まれた額宛てへと、リーは柔らかくその唇を押し付けた。



「こんなに可憐な人……ボクには勿体ないくらいですよ、ネジ」

 いつもは男らしく凛々しい響きのリーの声音は、こんな風に甘ったるく囁けばそれはそよ風のように軽く口付けるように甘い。リーの柔らかさに軽く押された額宛てから全身に熱が回る。ネジにとっては自分の体に口付けされたのと同じ感覚だった。こんな薄い額宛てに、リーの熱を隔てることなど到底出来ない。

 たった、たったこれだけのことにネジは真っ赤になって黙り込んでしまう。その純粋さにいつまでも釣り合う自分でありたいとリーは願って、また困らせるように額宛ての同じところに口付けた。
――どうか、ボクだけの花でいてください。 
 願いは、口には出さずに。





 ネジはきっと、真っ赤な撫子も似合うことだろう。ふとリーはそう思った。
 染まった頬を包み込む包帯の指先は、只々優しさに満ちていた。







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