短篇集
□愛しい声で名前を呼んで
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◆大倶利伽羅の場合◆
『光忠殿は』
『殿付け』
『……う』
『年だって近いんだから、気にしないでよ』
『……確かに、そうですな。では、光忠と』
『うん。それで――』
厨で話す声が聞こえて、立ち寄ろうとしたのだがふと立ちどまる。恋人の声にどきりとした。
顔をのぞかせてやろうかと思ったが、変に思われて後でからかわれるのも嫌なのでやめた。邪魔するようになるのが、なんとなく忍びなく思えたのだ。
「……ふん」
心にもやがかかったのをごまかそうと、鼻を鳴らす。立ち寄る機会を逃した俺は所在無さげに立ち尽くしていた。
話が終わるまでどこかで暇でも潰そうとしたのだが、存外はやく切り上がったらしい。さっきまで恋人と話していた相手は厨を出ると、足早にどこかへと去っていった。進行方向とは逆の方にいた俺には、どうやら気付かなかったらしい。
「……おい、光忠」
さきほどまで楽しそうに声を弾ませていた背中に、ぶっきらぼうに声をかける。そいつは俺に気付いて振り向くと、柔らかい笑みを浮かべた。
「おはよ、伽羅ちゃん」
女であれば一発で落ちてしまいそうなほどの笑顔を朝っぱらかましながら、恋人は普段通りの挨拶をする。さすがは伊達男の刀だっただけはある。俺は軽く眉を寄せると、戸口にもたれかかって流し目にそいつを見た。
「ごめんね、起こそうと思ったんだけど、伽羅ちゃん、よく寝てたから。起こすのも悪いと思って……」
「……別に」
やけに寒いと思って目が覚めたら、そばにいたはずのあんたがいなくなってただけだ。
口には出せないその言葉を眼差しに乗せるが、もともと感情の起伏が外に出にくい質だ。恋人がそれに気付いたのかどうかは、分からない。けれどそれでよかった。
普段、俺たちは大体同じ時間に目が覚める。示し合わせたように起きるのが常だったのだ。しかし昨日は遠征が立て続いたおかげか、少し遅く起きてしまった。
朝に逃した温もりを、もう一度捕まえるように後ろから抱き竦める。味噌汁の味を確かめようとしていた体が、びくりと跳ねた。
そいつは慌てて振り返る。
「ちょっと伽羅ちゃん、寝ぼけてる⁉」
寝ぼけているわけ、ないだろう。
そんなことしたら、お前の温もりを覚えられない。
軽い苛立ちに、俺はじっとりとそいつを睨み付けた。気付くはずはないとたかをくくってみるが、振り返った顔がゆるりとした笑みに変わる。
そうして、恋人は火を止めると俺の頭をわさわさと撫でた。
「はいはい、独りにしてごめんね?」
「っ、そんなつもりじゃ」
「でも、寂しかったんでしょ」
全てを見透かすような飴色の瞳に、やるせないため息が漏れる。
ああ、そうだった。こいつはいつも、一枚上手だ。
「よしよし」と動物でも撫でるような優しい手付きに、俺は言い返す言葉もなくされるがままになる。
ひとしきり撫でられていると、恋人は満足したのかまた前へと向き直った。
恋人の温もりを味わった俺も同様に満足して、肩から胸へと這わせていた腕を、するりとほどく。そして光忠の耳元で囁いた。
「……手伝ってやる」
「うん、ありがとう」
柔和な笑みを浮かべて、光忠は嬉しそうに頷くのだった。