短篇集

□ロストシークレット
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「──はそのために今日まで生きて来たといってもいいくらいなのです。だから、Kが一直線に愛の目的物に向って猛進しないといって……」

 穏やかな、しっとりした声が湖面を滑るように紡がれる。淀みなく続けられる言葉に、その教室にいる人間のほとんどが耳を澄ませていた。
 現代文の授業中、午後特有の気だるさと暖かな陽射しが、教室を満たしている。
 ことさら睡魔を誘うような雰囲気には、既に舟を漕いでいる生徒もいた。
 その中で一人起立して、一期は静かな声で文豪の作品を滔々と読み上げてゆく。

「──ない以上、Kはどうしてもちょっと踏み留まって自分の過去を振り返らなければならなかっ、た、ので……」

 ふと、一期の声が途切れる。

「……粟田口?」

 難しい漢字でもないところで不自然に詰まった一期に、男性教師は教科書から顔を上げた。周りの生徒もそんな一期に視線を寄せる。
 一期は顔を真っ赤にしてうつむいていた。呼吸が乱れ、言葉の代わりに荒く息を吐く。

「……っ、は……」
「どうした?」

 なんでもありません。一期の唇がそう答えようとした時、一期の体がバランスを崩す。机に手をついて、がくりと力の抜けた膝を必死に支えた。普段から物腰柔らかく気品のある仕草が常なだけに、一期の突然の異変には周りの生徒も慌てた。

「一期。君、そういえば朝から具合が悪かったろ」

 大丈夫? とか、どうしたんだ、と心配の声が教室を飛び交う。そんな中でそう言って助け舟を出したのは、隣の席に座る鶴丸国永だった。
 クラスメイトたちが戸惑いの表情をする一方で、彼だけは事態をわかっているような、飄々とした笑みを浮かべている。
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