駄文帳

□きみに言えないこと
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ニャンコ先生を連れて、夕焼けを眺めながらのんびり歩いていたら、あちこちの家から夕食の支度をする匂いが漂ってきて、まだ早い時間なのにお腹がすいてくる。野菜が煮える匂い、肉や魚が焼ける匂い。昔は無縁だと思っていたのに、今はその匂いで藤原家のキッチンを頭に浮かべるようになった。
今夜のおかずは何だろう。寒くなってきたから、鍋とかかな。シチューもいいかもしれない。ああ、こないだのカレーは美味しかったな。あれなら毎日でもいいから食べたいな。
ぐぅ、とお腹が鳴って、思わず先生を見る。聞こえたらしくて、振り向いてからかうようににやりとするけど、口の端からなにか虫の足のようなものがはみ出ている。なんだよ、先生だってお腹すいてんじゃん。
「そんなものつまみ食いするなら、ごはんは要らないかな」
言うと先生は慌ててそっぽを向いて、口をもごもごさせた。次に振り向いたときには足はどこにもなくて、なんとなく微妙な気分になる。虫ってそんなに美味しいのかなぁ。
田んぼの中を伸びる未舗装の道を、なおも歩き続ける。目的地なんてなくて、ただ暇だったから散歩をしているだけ。夕食の時間には帰りたいので、時々ポケットから携帯を出して確認する。まだもうちょっと、歩く時間がありそうだ。

そんな感じで歩いていたら、七辻屋の前に出た。先生の目が期待にきらきら輝くけど、ダメ。今食べたらごはんが入らなくなるじゃんか。

そういえば、この店で何度饅頭を買っただろう。
いつも先生と分けて食べていたけれど、たいていひとつめを食べ終わる頃には残りの饅頭は消えていて、先生のほっぺたがリスみたいに膨らんでたりする。ほんと、食い意地の張った猫だよな。意地汚いっていうか。グルメを気取るわりには、さっきみたいに虫とか捕まえて食べてたりする。どこがグルメなのか問い詰めたらどんな言い訳をするだろう。今度試してみようかな。

足元を見たら、先生はいなかった。
焦って周りを見回すと、茂みの向こうで小さな妖をからかって遊んでいる。
「こら!なにやってんだ」
強めに叱ると、悪戯が見つかった子供みたいにビクンとする。その隙に逃げていく妖には構わずに、俺をちらりと窺って、さもなにもしてませんよと言いたげにその場で毛づくろいを始めた。
「もー、ちょっと目を離すとこれだから。弱いものいじめはやめろって言っただろ?」
抱き上げるとにゃんと鳴く。腕の中に収めたら、小さくごろごろと喉の鳴る音が聞こえてきた。

こうしてると、ちょっと太った普通の猫って感じがする。いやちょっとじゃないか。かなり?いやそれも表現として足りてない。このまん丸な体とまん丸な頭を、どう言えば表現できるんだろう。

「………先生?」
ふと不安になって、呼びかけてみた。
もしもこれが普通の猫だったら。もしかして先生はどこかよそへ行ってしまっていて、俺が先生だと思って抱いているこれが全然違う猫だったら。
「………なんだ?」
腕の中から返事がして、見下ろせば俺を見上げる半月型の目。
「……………なんでも、」
ぎゅっと抱きしめたら、苦しいと文句を言われた。
でも、よかった。
先生はどこにも行ってない。ここにいて、俺のことを見ていてくれている。



子供の頃から、無くすことに慣れすぎて、いろんなものが消えていくことになんの感情も持てなかった。
例えば夕食のおかずのお肉とか。机に置いていたはずの新しい消しゴムとか。
お父さんや、お母さんとか。自分の家とか、自分の部屋とか。
転校を繰り返す中で、少しだけ言葉をかわすようになった子とか。いつも一人で下校する俺をなぜか気にしてくれて、たまにお菓子をくれたりしていたお婆さんとか。
大事なものや、大好きなものから先に俺の前から消えていく。あとに残るのは、覚えていたくもないのに頭にこびりついて離れない記憶。冷たい目、冷たい言葉、冷たい手。
それにすっかり慣れて、大事なものは持たないようにしていた。なにかや誰かを好きになることを、諦めていた。

なのに、なんでだろう。ここに来たとたんに、大事なものが抱えきれないくらいに増えた。家族として迎えてくれた人たち。古くて大きくて暖かい家。クラスの友達。一生できないだろうと思ってた、妖のことを隠さず話せる友人まで。
諦めることを忘れたまま、このままでいてもいいんだろうかと、思ってしまう。

「………腹が減った」
抱きしめてるせいでくぐもって聞こえる声で、先生が言った。さっき虫食べてなかったっけ?
「帰るぞ。もう飯ができているかもしれんからな」

先生に逢ってから、俺は変わった気がする。
ときに背中を押してくれて、ときに引き留めてくれて。俺が俺でいられるように、いつも見守ってくれている。
そうして今も。
俺がなにを考えてるかなんてお見通しなくせに。


増えていく暖かなものは、全部先生が連れてきてくれたもの。
先生がいなければ、手にすることなんてなかったもの。

「そうだね。帰ろうか」

見上げると、いつのまにか空は藍色に変わっていた。
輝く星。昇る月。
昔は、夜が怖かったのに。

「一緒に、帰ろう」
丸い背中を撫でてそう言うと、にゃーんとひと声。軽い頭突きを顎にくらって、思わず笑った。
「先生ってば、猫の妖だったっけ?」
「さてな。あまりにも昔のことで、何の獣だったか覚えておらん」
済ましてそう言ってから、短い手で俺の肩をたしたしと叩く。
「ほら、急ぐぞ。可愛い私を飢え死にさせる気か」
「自分で可愛いとか言うな」

うん。可愛いよ。

丸い体も、短い手足も、大好きだよ。

どんな姿のときも、先生なら。

いつだって、泣きたいくらい大好きなんだ。

口に出せば幻のように消えてしまう気がして、絶対に言えないけど。




まん丸な猫を抱いて、暖かい家へと引き返す。

家の前では、笑顔で手を振って俺を待つ人がいて。

「おかえりなさーい!ごはん、できてるわよー!」

近づく俺たちを待ちきれない様子で、大きな声で呼んでくれる人に。

「ただいまー!」

負けないくらい大声で応えて、駆け出した。






これからもいつまでも、今ある大切なものすべてを抱えこんで、ひとつも無くすことのないように。

そんな願いは欲張りが過ぎると、わかってるのに。




「おまえな、いくら私がキュートでプリチーで離したくないからといって、抱いたまま走るな!前後左右に揺れまくって、吐くかと思ったぞ!」
「俺にしがみついてたのは先生だろ!爪まで立ててしっかりくっついてるから、剥がせなかっただけだ!」
「揺れるからにはしがみつくしかなかろう!落ちたら痛いじゃないか!」
「猫って普通、受け身とるよね?先生太りすぎなんだよ!」
「貴様、私がこの愛らしいフォルムを保つのにどれだけ苦労してると思ってるんだ!」

口喧嘩しながらも側にいる、一番大事なもの。

これからもずっと同じ場所で、同じ夢を見ることができたらと。



明日失うかもしれないその大切なものを抱き込んで、俺は震える息をこっそりと吐き出した。








END,

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