駄文帳

□忘れないよ
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俺はひたすら床を磨いていた。
そこは広い屋敷の廊下。縁側、という部分なのだろう、片側はガラス障子で、その向こうは庭だった。いかにもな日本庭園では池に鯉が泳いでいて、ししおどしがカコーンとか鳴っている。
磨き抜かれて黒く光る縁側に座り込んでいる俺の手には、雑巾。側にバケツのオプションつき。

ここは身寄りのない俺を引き取った的場さんの屋敷。
俺はここで、お手伝いさんみたいな仕事をしている。この掃除もそうだし、他に炊事や洗濯も俺の仕事だ。この広い屋敷には、そういう仕事をする者が俺以外にいないからだ。

そうだったっけ、と頭のどこかでふと思う。

本当に、そうだった?

『ソウダッタヨ?』

どこか遠くから囁くこの声は、誰なんだろう。自分のような、他人のような。


「掃除はすんだのかい」
後ろからかけられた声に、はっとして振り向いた。いけない、ぼんやりしてる暇はないんだった。
「は、はい」
「ふん。まぁいい、そろそろお茶の時間だよ」
「はい」
メガネの奥から俺を見つめる七瀬さんから逃げるように、雑巾をバケツに放り込んでから厨房に急いだ。湯を沸かして茶葉の用意。今日の和菓子は当主の口に合うだろうか。
お茶の時間、ていっても、俺が休憩するわけじゃない。屋敷の奥のさらに奥にある部屋で、なにかの研究のようなことに明け暮れる的場さんにお茶を持って行くんだ。
いくつも佇む黒い影を避けながら、お盆を持って奥へ進む。ゆらゆら揺れる影たちには顔はないくせに、俺を見ているのが視線でわかる。気持ち悪いったらない。
「失礼します」
ノックをしてから、ゆっくりドアを開ける。真ん中に据えられた大きな机に向かっていた的場さんが、顔をあげて俺を見た。
「もうそんな時間ですか」
広げていた本みたいなものを片付けて、場所を作ってくれる的場さん。そこへお茶の載ったお盆を置く。
「ありがとう」
的場さんは湯飲みを持ち、添えた饅頭に手を伸ばした。
そういえばこの饅頭、厨房にあった。
俺、買ったっけ?
いつ、買いに出たんだっけ?
「夏目くんも、ひとついかがですか?」
考えこみそうになる俺に、的場さんが皿に載ったもうひとつの饅頭を指した。
「いえ、俺は……」
「遠慮することはありません。さ、どうぞ」
にこにこと饅頭を勧めてくれる的場さんに、どうしよう、と思ったとき。
「使用人に菓子など必要ないでしょう」
開けたままのドアから、七瀬さんが入ってきた。
「夏目はうちに使用人として連れてきたのですから。けじめはつけてください」
「………………」
返事をせずにお茶を飲む的場さんに、ちょっとほっとした。的場さんは穏やかで優しい感じの人なんだけど、なにを考えてるのかわからないところがあって、どうも不気味で好きになれない。七瀬さんは的場さんが俺を構うのが嫌なようだ。邪魔をしてくれて助かった。
「夏目、夕食の材料は揃ってるのかい?」
「あ、はい!じゃあ、失礼します!」
すぐにでも部屋から出たい俺は気をつけをして返事して、さっさとドアに向かった。

閉めようとして、中からの話し声がふと耳を掠める。
「今夜、じゃないですか?」
「ああ、多分ね」
「あれはどうします」
「閉じ込めて結界でも張っておけば………」
今夜、なにかあるんだろうか。ていうか『あれ』って、もしかして俺のこと?
結界ってなんだ。
閉じ込める、って。
立ち止まってしまって、影にゆらりと取り囲まれた。俺は急いでそのひとつを押し退けるようにして、その場から逃げ出した。

今夜。

なんだろう。なんかすごく気になる。

夕食を作って出して、部屋に戻った。今夜というのが気になって、何度も窓を見てしまう。そしたらそこに影が来て、ガラスに触れて行った。
いなくなったのを確認して、窓を開けようと手をかける。けれど鍵より頑丈ななにかがあるようで、いくら頑張ってもかたりともいわない。
もしかしたら、とドアに近寄ってみる。やっぱりというか、鍵もついてないはずのドアノブはまったく回る気配もなく。

閉じ込められた。

俺はベッドに座り、さてどうしようかと思案に暮れた。
今夜、なにかがあるらしい。
けれど詳しいことはまったく不明だし、俺に関係あることとも思えない。なにがあるのか気にはなるが、それだけだった。
さっきまでは。
でも、こうして本当に閉じ込められてしまえば、話は別だ。これは今夜のなにかを俺に見せたくない的場さんたちが、俺がうっかり外へ出たりしないようにと影に命じて窓やドアに仕掛けをしたんだろう。結界とやらも張ってあるに違いない。

そこまでして、俺をそれから遠ざけるということは。

それが俺に、関係あるということなんじゃないか。

「よし、出よう」
立ち上がって宣言する。そうして自分の隣を見て、ふいに寂しくなった。

いつも、誰かが一緒にいたような気がする。
思い出せないけど、優しくて、とても強いもの。

なんでいないんだろう。

なんで、一人なんだろう。

なにか白くて大きなものが、ふわりと頭の中を掠めた。

その途端、なぜだか激しい違和感に囚われる。
常に霧がかかったみたいにぼんやりする頭が、少しだけクリアになった。そうしたら、部屋も屋敷も作り物に見えてきて。
自分が自分じゃない気がして。
どこにも本当なんてない気がして。

窓に駆け寄って、叩いてみる。枠に手をかけて外そうとしてみる。窓はびくともしなくて、その向こうに広がる闇には動くものもない。

怖い。

ここにいちゃ、いけないんじゃないか。このままだと、なにか取り返しがつかないことになるんじゃないだろうか。

恐怖と焦燥感で、なかばパニックになりかけたとき。

ぼた、と重たい音が部屋に響いた。

びくんとして振り向く。

どこからか落ちてきたのは、真ん丸なダルマのような生き物。

「よぉ」
短い片手をぴっとあげて、場違いなくらい明るく挨拶するダルマ。
「……………なんなんだ、おまえ。妖か?」
後退りしながら聞くと、ダルマは首を捻った。
「さてな。さっきまでは覚えていたんだが、忘れてしまった」
「忘れた、って。自分のことをか?」
「おまえだって忘れているだろう。よく覚えていないが、ここはそういうところだったような気がする」
「俺は、……………」

言われて初めて気がついた。
俺は、誰だ?
名前は夏目、それはわかる。的場さんたちにそう呼ばれているからだ。だけど、それは名字。じゃあ、名前は?
名前だけじゃない。
いつからここにいるのか、来る前はどこにいたのか。昨日はなにをしていた?一昨日は?

「…………ボケたのかな、俺」
「違うと言ってるだろう。くそ、私も頭の中がぼんやりしてきた」
ダルマはイラついた様子でこれまた短い後ろ足で床をたしたし叩いた。
「だが、これは覚えている。私はおまえを、迎えに来たのだ」
「…………迎え?」
ダルマが俺を?
「ダルマではない。むう、名前がここまで出かかってるのに出てこない…」
喉に前足をあてて唸るダルマ。
「とにかく!出れば万事解決だ!行くぞガキ!」
「ガキとか呼ばれてついて行く奴なんかいないだろ!」
「仕方がなかろう、名前を忘れたんだから!」
ダルマは押し入れを開け、天井裏へと身軽に飛び上がった。
「窓とドアには嫌な気配がする。こっちから行くぞ」
手招きするダルマに、迷うことしばし。

見知らぬ妖ダルマの言うことなんか、信用できるんだろうか。

「早く来い。月が雲で陰ったら終わりだぞ」
天井裏から催促する声がする。月が、なんの関係があるんだ。

けれどその声は、聞いているだけで安心できた。そういえば、ダルマが落ちてきたときから恐怖が消えてなくなった。あんなに怖かったのが、嘘みたいに。

俺は押し入れに入り、天井裏に登った。暗闇の中で、ダルマの目だけが光る。

それでも、怖くない。

「行こう、ダルマ」

ついて行ってみよう。

なぜか、この妖は信頼できる気がした。

「この愛らしい私をダルマ呼ばわりとは。これだからヒトの子は嫌いなんだ、審美眼というものを少しは養うべきだろうに」
ぶつぶつ言うダルマについて、天井裏を這って進む。適当に手に触れた板をめくってみると、下に降りられるようだった。
「おいダルマ、ここから降りれるぞ」
囁くと、先を歩いていたダルマが振り向く。
「外に出ねばならんのに、屋敷の中に降りてどうする」
確かにそうだ。もし影が残っていたら、そのまま捕まるかもしれない。

でも。

俺は素早く飛び降りた。ダルマが慌ててついてくる。
「おまえという奴は、せっかく迎えにきてやったのに!早く出ないと、どんどん記憶が消えていくじゃないか!」
「ごめん。でも、あれを持って行かないと」
「あれ?」
「うん。よくわからないけど、絶対持って行かなきゃいけない気がするんだ」
言いながら、その場を見回す。影はいないようだ。みんな的場さんについて行ったのかもしれない。

ていうか。

「……なんだ、ここ」

もう何十年も誰も住んでいないような、廃屋の一室。畳は腐って破れているし、襖も障子も原型すら怪しい。蜘蛛の巣を避けながら廊下に出てみたら、そこも似たようなものだった。腐った板があちこちで曲がり、穴が空いたところもある。埃で煤けた天井からぶら下がった蛍光灯は、割れてゆらゆら揺れるだけだ。
「主が留守だから、幻術も解いているのかもな」
ダルマが足の裏についた汚れに顔をしかめながら言った。
幻術、ってなんだ。
もしかして、俺が掃除していた廊下や料理を作った厨房も、幻だったのか。
「多分、主は離れたところから屋敷全体に幻術をかけ続けることができるほどには力が強くない。だから、さっきの部屋の中だけに幻術をかけて、おまえを閉じ込めていたんだろう」
「幻、術…………。的場さんが………?」
「的場……?的場……、どっかで聞いたような名だな。ええいくそ、ここではなにもわからん。持ち出すものがあるんなら、さっさと取って出よう」
ダルマに急かされて、廊下を奥へ進んだ。一番奥の突き当たり。的場さんが机に向かってなにかをしていた部屋だ。
朽ち果てたドアが傾いたままで、ノブには埃が溜まっている。俺は今日、お茶を持ってここに来たはずなのに。ドアだって確かに開けたし、閉めたはずなのに。
開けようと引っ張ったドアが、床に倒れて派手な音を立てた。埃やゴミが舞い上がり、霧みたいに視界を遮る。
口に手をあててその中に飛び込んだ俺は、大きな机の上に目的のものを見つけた。

綴じ紐でまとめられた、緑の表紙がついた手作りの本。

『友人帳』

手を伸ばして触れると、熱を持っているかのように少しだけ温かかった。




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