駄文帳
□迷子の帰る場所は
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「せ、先生ぃぃぃー!」
お椀に向かって絶叫する俺。
女の人は驚いた顔をした。
「あなたのところでは、鹿を先生って呼んでるの?」
「…………は?鹿?」
「そうよ。今朝主人が捕ってきたの」
「……………………そ、そうでしたか」
たちまち真っ赤になってしまった。お椀に向かって叫ぶとか恥ずかしすぎる。
「おや、これは珍しい。お客様かい」
女の子に手を引かれたおばあさんが、ゆっくりと入ってきた。
「お邪魔、してます…」
頭を下げると、おばあさんは優しい笑顔で頷いた。
「さ、食べましょう」
女の人の言葉に、女の子が元気よくお箸をつかむ。
「いただきまーす!お兄ちゃんも、食べよ?」
「あ、うん………」
戸惑いながらお椀に手を伸ばそうとした俺に、おばあさんがふと笑った。
「帰りたかったら、食べちゃいけないよ」
「………………え」
女の人と女の子は、なにも聞こえなかったように食事をしている。
「……………ここは、どこなんですか」
「迷い家だよ」
おばあさんの声が、なんだか響くように聞こえる。
「迷い家…………」
「一口でも食べたら、もう帰れないよ。あんた、帰りたい家があるんだろう?」
「……………はい」
「心に、なにか迷いがあるとき。なにかを信じられなくなって、隙間を闇が覆ったとき。そういうときに、道ができるんだ」
あのとき。
俺は先生と、レイコさんの話をしていた。
そして、先生が今もレイコさんのことを想っていると知って。
俺は、先生にとってレイコさんの代わりなんじゃないかと、
「あの!猫が、来ませんでしたか?」
顔をあげて、おばあさんを見つめる。あのときの俺の心がここへの道を開いたんだとしたら、先生は巻き添えになっただけだ。俺のせいで、ここへ連れて来られたようなものだ。
「猫?」
「はい!えと、この女の子が見たみたいなんですが……こう、白い大福みたいな。鏡餅みたいな。とにかくまん丸で、猫というより豚みたいな不思議な形をしていて」
「……それ、本当に猫なのかい?」
怪訝な顔のおばあさん。当たり前か。俺だって言っててよくわからなくなってる。
「猫は見てないけど、獣の妖なら見たよ。白くて大きくて、どこぞの名のある大妖じゃないのかね」
「それ!それです!どこへ行きましたか?」
「…………あんた、人間だろう。妖になんの用事がある。喰われるのがオチだよ」
「あいつはそんなことしません。俺の、大事な友人なんです」
「……………友人、」
おばあさんが、ゆっくりと笑った。
「迷ったから、ここに来たんじゃないのかい?」
「…………………」
「その友人とやらを信じられなかったから、ここに来たんだろう。探してどうする?また迷いながら一緒にいる気かい?」
「………………俺は、」
「妖のことなんて忘れて、家にお帰り。ここは長く居る場所じゃないよ」
「あなたも、妖じゃないんですか?」
「私はこの家だよ。昔、まだここにヒトが住んでいたときの記憶を、再現しては懐かしんでいる。もう年だし、しばらくやめてたんだけどね。ふふ、かまどに火が入ったのが嬉しくて、つい」
まだ人がここに住んでいた頃の記憶。
俺は家の中を見回した。
ときにぼやけ、ときに鮮明になる襖や柱。家具や人。
これは、迷い家が覚えている、この家の過去なんだ。
「………暖かい、家ですよね」
そう言うと、迷い家はふっと笑った。
「そうだね。あの頃は、とても暖かかった。囲炉裏にもかまどにも、いつも火があって。ヒトの笑い声で、満ち溢れていたよ」
でもね、と迷い家は続ける。隣にいる女の子の頭を撫でたが、女の子は気づかない様子で楽しそうに食事をしていた。
「あまりにも不便すぎるから、という理由で、ヒトはよそへ引っ越していったよ。私は一人でここに残されたけど、恨む気はなかった。ヒトにはヒトの生活があって、ここがそのために不便で住めないと言うなら仕方がないさ。だから、私はここで、時折訪れる妖や、ごくたまにだけどヒトにも、ここはこんなに暖かい家だったんだよ、って言いたくて、こんな幻を見せたりしてたんだ」
「……………はい」
「けれど、暖かすぎて居心地がよすぎたのかね。帰れなくなる者が多すぎて」
迷い家の瞳から、涙がこぼれた。
「外は、そんなに辛いことが多いんだろうか。みんな、帰りたくない、もう嫌だ、と言ってここに残るんだよ。私は妖だ。中に居る者の生気や妖気を吸って生きている。吸いたくなくても、吸ってしまうんだよ。中に居る限りは」
「……………じゃあ、俺も……」
「坊やの妖気は強すぎて、私には重すぎる。だから、帰ってもらいたいのさ。珍しいね、ヒトの子がこんなに妖気が強いなんて」
「…………祖母譲り、なので…………」
言って、また思い出す。
先生は、俺をどう思っているんだろう。
レイコさんを、どう思っていたんだろう。
「……また迷ってるね?」
迷い家はため息をついて、俺に手を伸ばした。
「はっきり聞いたらいいだろうに。怖いのかい?想像している通りの答えが返ってくるのが」
「………………怖い、というか」
頭を撫でる手は優しくて、涙が出そうになる。
「わかってるから、聞きたくないんです。だって先生は、レイコさんが好きで……俺は顔がそっくりだから、俺を通してレイコさんを見てるだけだから……」
レイコさんが誰なのか、先生が誰なのか。説明してないから、きっとわけがわからないと思う。それでも、迷い家は微笑んで聞いてくれていた。
「それが嫌なら、離れたらいいじゃないか」
「できません………できないから、だから………」
「そうかい。あんたは、その先生が大好きなんだねぇ」
「…………えっ」
驚いて顔をあげる。
大好き。それはそうなんだけど。
今の言葉は、違う意味に聞こえたような気がする。
「大好きなんだろ?自分を見てほしくて、好きになってほしくて、でも言えないから迷ってる」
「………………そ、んな………」
ああ、でもそう思ったら納得する。
先生がレイコさんのことを話すたび、苦しくなる理由が。
『あいつといるのは、楽しかったんだ』
遠い目をする先生に、なにも言えなかったのは。
それは俺が、先生のことが好きだからなんだ。
「でも………先生は妖で、」
俺はヒトで。先生は強くて、俺は弱くて。
いつも守られてばかりで、なのになにも返せない。
先生が俺を見なくても、仕方ない。
「先生というのは、あの白い獣の妖のことだね」
迷い家は静かに笑った。
「それなら、心配ないよ。あんたが考えていることを、全部言ってみたらいい」
「…………え」
そのとき、家の中が眩しい光に満ちた。
同時に聞こえた、怒鳴り声。
「くそババァ、いつまでそれに触ってる!それは私のものだ!手を離せ!」
「…………先生、」
気がつくと、俺は座敷に一人で座っていた。側に白い獣がいて、鼻息荒く周囲を見回している。家の中は、最初に見た通りの廃屋に戻っていた。
「おまえ、油断しすぎだろう!なに他の妖に頭なんぞ触らせてるんだ!」
ぷんすか怒る先生が、俺の頭を乱暴にぐしゃぐしゃする。
「なにって。先生こそ、どこ行ってたんだよ!探したんだぞ!」
「ガキに遊べと言われて断ったら、おまえがいなくなってたんだ。私だって探したんだぞ!」
「俺はずっとここにいたぞ?」
「ふん。多分、おまえがいたのと違うところに飛ばされたんだろう。そんで探してたら、おまえの声が聞こえてきたから、黙って気配を探ってたんだ。そうしたら、ババァがおまえに触れてたんで腹が立って」
「聞こえてきた、って」
どこ聞いた。どこまで聞いた。ちょっと、俺どうしていいかわかんないんだけど。
「雨もやんだし、帰るぞ。長居できるところじゃないからな、ここは」
「………うん」
外に出て、振り向いた。
変わらず、薄暗い廃屋。
家財道具もなにもない、捨てられた家。
それでも、まだ暖かいと思った。優しい空気が満ちているような、そんな空間。迷って、帰る場所を見失っている人なら、帰りたくなくなるだろうと思う。
以前の俺なら、きっと帰らなかっただろう。
「お世話になりました。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げて、先生の背中に乗った。
『楽しかったよ。迷ったらまたおいで』
返事が聞こえたような気がしたけど、先生がすぐに飛び立ってしまったから、はいと答える暇がなかった。
風を切って、山を越えた。眼下に俺が住む町が見えてくる。
「………先生、」
「なんだ?」
「………………なんでもない」
やっぱり、言う勇気はない。
黙っていたって、いいんじゃないか。どうせ俺がいくら好きでも、同じ想いが返ってくることはないんだし。変に気まずくなるくらいなら、言わないほうがいい。
「………全部話せ、と言われてなかったか?」
「えっ」
先生は向こうを向いたまま。表情はわからない。
「あのババァに、おまえが考えていることを全部言ってみろと言われていただろう」
「そこ、聞いてたんだ………」
「いや。それより前から聞いてた」
「……………」
無言で毛をむしり始める。先生が慌てて振り向いた。
「痛いだろう!なにむしってるんだ、ハゲ散らかったらどうする!」
「こっそり聞いてるからだろ!先生のバカ!」
いないから、言えたのに。
聞かれてたなんて。
「いいから言え。なにを考えてる?」
空中で止まってしまった先生が、俺を見つめてくる。
地面まで何メートルあるんだろう。飛び降りたら、俺死ぬかな。
「夏目」
じっと見つめてくる金色の瞳に、仕方なく口を開いた。
「なんでもないことだよ。きっと先生、馬鹿馬鹿しいって笑うから。だから、」
「笑わない」
「…………………」
「おまえの言葉なら、私は笑わない。きちんと全部聞いてやるし、必要なら答えもしよう」
「…………………ええと」
あまりにも真剣な目に、困ってまた毛をむしる。
『大丈夫だから』
迷い家の優しい顔が浮かんだ。
本当に?
本当に、言っていいのか?
俺はこの妖に、我儘に近いこの感情を、口に出してしまってもいいんだろうか。
「……………あの。先生、は………」
恐る恐る、少しずつ。
話す俺を、先生はじっと見ていたけれど。
話し終えて、顔が見れなくて俯く俺に聞こえてきたのは、大きなため息。
「馬鹿馬鹿しい」
「ほら言った!絶対言うと思ってた!」
だから嫌だったんだ、先生のバカ。
ぶちぶち毛をむしる俺を乗せたまま、先生は藤原家の二階の窓に降りた。中へ入り、汚れて濡れた自分の姿を見下ろしてため息をつく。
「風呂行かなきゃ。行くぞ先生。ほら、猫に戻って」
「…………」
だけど先生は動かない。おすわりの形のまま、俺を見ている。
「馬鹿馬鹿しいと言ったのは、」
さっきの続きか。
「いいよ先生。俺が我儘なんだから、気にしないで」
無理に答えなくていい。
けれど先生は、俺を見つめたまま。
「おまえが、どうでもいいことを言うからそう言ったんだ」
どうでもいいこと。
「…………わかってるよ。だからさ、もうそれは、」
ずきずき痛む胸を抑えて、無理に笑う。
これ以上は、聞きたくない。
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