駄文帳
□愛が呼ぶほうへ
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森の奥深くで、私はただじっと耳を澄ましていた。
友人帳の最後の一枚は、三篠の名だった。夏目がそれを返したとき、奴は笑って言ったものだ。またいつでも呼んでくれと。名を預けていなくとも、主と呼ぶのはあなただけだと。
少しだけ、羨ましかった。私と夏目には、そういう繋がりがなかったから。
もう用はない、と背を向けた私に、先生と呼びかけた夏目。けれど、それ以上はなにも言えないまま、ただ私を見送った。
泣きそうな瞳。
私たちには、友人帳という繋がりしかなかったから。
それがなくなった今、夏目の側にいる理由もないのだから。
思い詰めたような声。
私に、どうしろと言うのか。
私は、どうすればよかったのか。
それから、ずっとここにいる。
幾重にも張り巡らせた結界のせいで、妖たちにすら私の気配も感じることはできない。
ひたすらに暗い森の奥で。
私はただ、聞いている。
草を踏み分け、茂みをかき分ける音。
ああ、今日もまた来たのか。
この厳重な結界があっても、あいつにはどうしてか私の気配がわかるらしい。
姿は見えないようで、周囲を見回しながら私を呼んでいる。
呼んでいる。
毎日。
もう、背を向けたあの日から、季節が一巡りしたというのに、毎日。
「先生…………」
掠れた声で、また呼んだ。
私がニャンコ先生などというふざけた名を名乗ったのは、あいつに名を縛られたくなかったからだ。友人帳に綴じなくても、力のある者なら真名を呼ぶだけで妖を縛ることができる。
だから、違う名で呼ばせた。それだけだ。
名を縛られれば、それが側にいる理由になったのに。
あのとき、私はそうしなかった。
「ニャンコ先生……」
ここにいるんだろ?と続く声に、耳を澄ませながら考える。
あいつは、なぜいまだに私を呼ぶのだろう。
友人帳が既にない、という噂は妖たちの間にすぐに広がった。安堵する者、悔しがる者、反応は様々だったが、たいていの者がそれで夏目に興味を失ったようだった。
中には妖力に惹かれて近づく者もいたが、夏目も無駄に場数を踏んでいたわけじゃない。おかげで私がいた頃よりも、ずいぶん平和に暮らしていけるようになっている。
なのに、なぜいまだに。
「先生ー…………」
どうして私は、あいつの声に耳を澄ましているんだろう。
私は、帰りたいのか?
友人帳がなくなり、縛るものがなくなって、自由になったのに。
もうヒトの世界に紛れて、猫のふりをしなくてもよくなったのに。
友人帳の残りが数枚になってからずっと、なにか心に引っかかるものがあって。
だから、離れようと思ったのに。
夏目から。
自分の心の中の、なにかから。
「せん、……………」
それきり聞こえなくなる声。
だけど、私は知っている。あいつが木にもたれて座り込んでいることも、泣いていることも。
波打つ心に蓋をして、未練が残らぬように振り向くこともせず、夏目から逃げてきたのに。
なぜ、一年も過ぎた今になっても、そうやって私を呼んで泣くんだ。ヒトの一生はとても短くて、その中の一年というのはとても大事なもののはず。なのになぜ、それを私のために無駄にしてしまうんだ。
そしてなぜ、私は毎日飽きもせず、夏目が私を呼ぶのを耳を立てて待っているんだ。
声が、
私を呼ぶ、その声が。
心を揺さぶるその声が、聞きたくて仕方ない。
耐えられなくなって、私は立ち上がった。
結界を解き、夏目に向かって足を踏み出した。夏目にとっては、私がいきなりゆらりと姿を現したように見えたのだろう。びくんと体を揺らし、驚いた目で私を見る。その頬が涙に濡れているのを見て、私の中に澱んで溜まっていたなにかが形になるのがわかった。
「…………せん、せ………」
動けない夏目に、さらに近づく。足元で枯れ葉ががさりと音を立てた。
「久しぶりだな、夏目」
「…………先生、俺、」
立ち上がる夏目の次の言葉を遮って、私はにやりと笑ってみせた。
「勝負をしないか」
「………勝負?」
レイコがいきなりそう言うたび、相手の妖がこんな顔をしていたな、と笑いたくなった。夏目は真ん丸な瞳で、なにを言い出す気かと私を見つめている。
「そう、勝負だ。私がおまえに喰らいつくことができればおまえの負け。それを阻止されたら私の負けだ」
「………………俺を、喰うつもりなのか?」
「怖いか?」
「…………………」
しばし思案するように黙っていた夏目は、やがて私に向き直った。
「俺が勝ったら、どうする?」
まだ涙が残る瞳が、強く輝いた。
そう、それでなくては。
そうじゃなきゃ、始まらない。
「私の名を、おまえにやろう。だが、私が勝ったら……」
「……………いいよ。俺を、喰わせてやる」
これで、夏目は私のものだ。
そう思っただけで、身体中が歓喜で溢れた。
「でも、俺が勝っても。名前はいらない」
「ふん。では、なにを望む?」
「……………内緒だよ」
夏目のこんな顔を見るのは、初めてだと思った。
私を恐れる様子もなく、まっすぐに見つめてくる強い瞳。
自信に満ちたそれに、一瞬見惚れた。
だが、もとより負けるつもりはない。いつまでたっても青白いもやしみたいな夏目に、本気でかかるのはおとなげない気もするが。
勝たせてもらう。
そうして、夏目を一口でぱくりとやって、あとは遠く、どこか違うところへ飛んでいく。
誰もいない場所へ。
「………いくぞ」
足に力を入れ、身構えた。夏目も右手を握り、腰を低く構える。
「いつでも、どうぞ」
そんな余裕のセリフを吐けるのも、今だけだ。
地を蹴って飛びかかった。夏目が妖と対峙するときの戦い方くらい覚えている。
必殺技は、右ストレート。それを避ければ、私の勝ちだ。
飛んできた拳を避ける。
口を開ける。
目の前の夏目に、両手を伸ばす。
勝ったと思った、そのとき。
がん、と強い衝撃を右頬にくらい、私はそのまま吹っ飛んだ。その衝撃でぶつかった木が折れ、大きな音をたてて倒れてくる。
下敷きになったまま、痛みを堪えて夏目を見た。
………左フック、だと…………?
「先生がいなくなってからも、色々あったから。これでも、俺なりに頑張ったんだよ」
握った拳を解いて、夏目が微笑む。
「俺の勝ちだね。言うこと、聞いてもらうよ?」
なんてことだ。今さら、確かにレイコの孫だと痛感するとは。
今の夏目の笑顔は、勝負に勝ったときにレイコがみせた、あのムカつくほどに勝ち誇った笑顔に、そっくりだ。
「………おまえの望みを言え」
仕方なく、私はそう言った。まさか新しい技を仕込んでいたとは知らず油断したとはいえ、負けは負けだ。
また、一緒に帰ろうと言い出すのではないかと思っていた。
あの家で、飼い猫として。
それをするには、どうしても必要なことがあるのに。
けれど、夏目は私の目の前まできて、俯いてしまった。
「……………時々でいいから、俺のこと思い出してくれないかな」
「…………………」
「そんで、本当に気が向いたときだけでいいから。………俺のところに、遊びに来てくれたら、」
「…………………」
「……………俺が、先生のことが大好きだっていうことを、覚えていてほしいんだ……………」
「…………そんなことを言うために、毎日ここまで来ていたのか?」
「…………だって。俺、先生にそんな嫌われてるって、わからなく、て………」
俯いた夏目から、地面にぽたぽたと水滴が落ちた。
「ほんとは、一緒に……帰ってほしかった、けど。でも、無理なんだな、って…………」
「…………………」
「ごめん、先生。俺、ほんとにしつこかったよね。先生が怒るの、わかる。…………けど、」
だけど、と夏目は呟いた。
「今までで本当に大切だって思って………一緒にいたいって、思ったの、先生が初めてだったんだ………」
震える肩を見つめて、地面に吸い込まれていく水滴を見つめた。
こいつが、本気でなにかをほしいと口にしたのは、初めてなんじゃないか。
私をほしいと、大好きだと。
自分を喰らいそうになった妖にそう言うには、どれだけの勇気が要ったのだろう。
「……………私は、おまえを喰うつもりはなかった」
真剣な想いに応えるなら、私も正直に言うしかない。
「おまえをくわえたら、そのまま飛び立って、どこか遠くへ行くつもりだった」
「…………遠く、って?」
「どこでもいい。誰も知らない、誰にも邪魔されないところで、おまえと暮らそうと思っていた」
「………………俺と?」
ようやく顔をあげた夏目の頬が、また涙で濡れていた。
「そう決めて、勝負を挑んだんだ。負ける気なんぞ、さらさらなかったんだがな」
耳が、心が、夏目の呼ぶ声を欲するなら。
いっそ連れ去ってしまおう、と思った。
そうして、私だけを見る夏目と一緒にいれば、きっと約束なんかなくても、契約なんかしなくても、死ぬまでそのまま暮らしていけるんじゃないかと思って。
「夏目、私の負けだ。おまえの望みは聞いてやる」
「………………」
「夏目?」
「先生。新しい約束をしよう」
「……………約束?」
なにを約束するんだ。友人帳はもうない。私には、他に理由が思いつかない。おまえの側にいるための理由が。
「先生が言った、俺と二人で暮らしたいっていうのが本当なら」
泣き笑いの表情で、夏目が言う。
「俺が死ぬまで、一緒にいよう。それが、約束」
「………………………」
私は、木を背中に乗せたまま起き上がった。
「………わかった。約束、だな」
「先生が嫌なら、無理にとは…………」
「アホ。言っただろう、おまえをさらって遠くへ行くつもりだったと」
ぼん、という音と煙とともに、ずいぶん久しぶりに猫の姿に戻った。そのまま夏目の胸に跳ぶ。すぐに回された腕の暖かさが、懐かしいと思った。
「おまえといられるのであれば、遠くでなくとも同じことだ」
「…………せん、………」
妖とは本当に不便なものだ。
約束も契約もなしでは、ヒトに寄り添うこともできない。
私を抱きしめてまた泣き出すこのヒトの子が、心の底から愛しいと感じる。
それが、私の心に引っかかり、気づかれぬままに積もっていった私の本当の想いだった。
いつか、はるか先の未来で、夏目が消えてしまうことがあったら。
そのときは、私も消えよう。
夏目が消えたら、いくら待ってももう私を呼ぶ声は聞こえなくなるから。
いくら耳を立てようが、どこからも聞こえてこなくなるから。
結界の中で初めて知った感情は、『寂しさ』だった。
もう、あんな気持ちになるのは嫌だ。
一緒に消えて。
そうして、どこか遠く違う世界で、
また、一緒に。
END,