駄文帳

□甘い1日
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「なぁ先生」
問いかけられて振り向いたが、夏目はテレビに目を向けたまま。旅番組を放映中で、画面にはどこか山奥の秘湯が映っている。
滋はまだ帰っていなくて、搭子は買い物に出かけたばかり。家に二人きりなので、私はこたつの上に飛び乗って遠慮なく口を開いた。
「なんだ」
「あのさ、先生ああいうとこ行ったことある?」
ああいうとこ、と言われてもう一度テレビを見た。
「わざわざ出かけてまで風呂に浸かりたいとは思わないんでな」
首を振ってみせると、夏目も首を振った。
「違うよ、温泉じゃなくて。ほら、ああいう景色のとこ」
画面に映る露天風呂の、まわりの景色か。
雪に覆われた草や木が重そうにしなり、配置してある大きな岩はもうすっかり白くなって埋もれそうになっている。木々の合間から見えるのは海か。風があるらしく、積もった雪が時々弾けたように散っていく。薄曇りの空からは、今にもまた雪が降りそうな。
「……寒そうだな」
素直な感想を述べたのに、夏目はほっぺたをぷくぷく膨らませて私を睨んでくる。だって雪があって風が吹いてるんだぞ?いくら風呂があるからって、おまえはあそこで裸になる根性があるのか。濡れた体で温かい風呂から氷点下かもしれない気温の中に出てくる根性は。言っとくが私にはないからな。
「俺も無理。てかそうじゃなくてさ。あんなに雪が積もってるとこ、行ったことあるのかなと思ったんだよ」
「これは北のほうだろう。そんなところに用事もないし、知り合いもいない。行く必要がどこにある」
たいていの妖はねぐらを決めたらそこから遠くへ行くことはまずない。中には知らない土地をさまよい歩く妖もいることはいるが、そいつらにしても目的があっての旅だ。物見遊山で観光をして回るのはヒトだけじゃないか。
「そっか。でもこういうの、一回見てみたくないか?」
「雪をか?」
「そう。だってこのあたり、降ってもあんまり積もらないし」
つまり、見たことのない景色を見たい、ということのようだ。

行ってみるか?
そう言うと、驚いて目を丸くした夏目が急いで頷く。

そうして翌朝、私は夏目を背中に乗せて空を飛んだ。

「先生、すごい!ほら、雪が!」
夢中で下を覗き込む夏目に苦笑して、わざとふらついてやる。慌ててしがみついてくる夏目に、笑い混じりの小言をひとつ。
「飛行機じゃないんだ、しっかりしがみついてないと落ちるぞ」
「今の、わざとだろ。意地悪なんだから、このバカニャンコは」
言葉はいつも通りだが、声が全然違う。歌い出しそうな、楽しげな声。
夏目が楽しいと、私も楽しい。
そんなふうに感じるようになったのは、いつからだったろう。

田畑を雪に覆われた、真っ白な村。点在する農家や立木が黒い陰になり、モノトーンの世界をつくっている。その向こうは、真っ白な山。
それを眼下に臨む高い山の上に降り、猫の姿に戻った私を夏目が抱き上げて胸に包む。冷え切ったその体に思わず身震いして、もっと厚着をさせておけばよかったと後悔した。所詮私は南国の妖、冬の北国がこうも寒いとは想像していなかった。風はそよぐ程度なのに、その冷たさときたら。身を切る、という表現が大袈裟ではないと、まさに身をもって実感する。
夏目を見上げると、周囲の景色に見入っているところだった。寒さなど、今は気にならないらしい。
雄大すぎる風景は圧巻という他はなく、自然がつくる美しさに言葉が出ない。来た甲斐があったな、と一人頷いた。これで酒があれば、もう言うことはなかったのだが。
「‥‥きれいだね」
囁くように呟いた夏目の声に、はっと我にかえる。雪がつくった絶景に見とれている間に、時間が経っていたようだ。夏目の体はすっかり冷えて、唇が色を無くしている。
「帰るぞ、夏目」
獣の姿になって、夏目が乗りやすいように身を低くしてやった。
「え。だってまだ来たばかりだぞ?もう少し、」
「アホ。すぐ風邪をひく軟弱体質のくせに、寝言を言うな」
さっさと乗れと促すと、渋々みたいに私によじ上ろうとする。だが冷え切った体は動かしにくくなっているようで、しばらく雪の中に埋まっていた足は完全に固まってしまっていた。
「仕方ないな」
言って、そのまま夏目をくわえて飛び立った。なにやら悲鳴があがっているが、構ってられるか。早く暖かいところへ戻って、夏目を解凍しなくては。


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