駄文帳

□甘い1日
2ページ/4ページ




雪のないあたりまできて、下を見回した。山々がどこまでも連なっているばかりで、町も村も見当たらない。
そこに、湯気の上がった小さな泉のような場所を見つけた。降りてみると、それはどうやら天然の温泉。浸かっていた猿が、私を見て慌てて森の中に逃げていく。
「夏目、温泉があるぞ」
下ろしてやると、夏目はふらふらとその場に座り込んだ。
「バカニャンコ……マジで怖かったんだからな」
「凍って固まっていれば、他に運びようがないだろうが」
「それにしたって…」
さらに文句を言いかけて、そこで初めて温泉に気づいたらしい夏目が、驚いたように目を見はった。
「え、ここ温泉?」
「らしいな。さっき猿が入ってた」
「猿!どこ行った!?」
途端に元気になった夏目がまわりを見るが、猿たちはとうにどこかに行ってしまっている。いないことを確認してがっかりした顔をする夏目が面白くなくて、私はわざと乱暴に湯に飛び込んだ。派手な飛沫が上がり、夏目が怒った顔でこちらを見る。
「なにすんだよ!着替え持ってないんだぞ、濡れたら……」
「乾かせばいいだろう。ほら、さっさと入れ」
「タオルとかもないんだけど」
「凍えてたくせに、贅沢を言うな」
「………………」
夏目は少しの間迷っていたが、温かい湯気には勝てなかったようだ。渋々服を脱ぎ始めた。
「ここ、どこなんだ?勝手に入って叱られないかな」
「まわりに家はまったくないし、ヒトの気配も感じられん。多分自然に湧いた温泉なんだろう」
「そっか。それなら……」
裸になった夏目が、ようやく湯に入ってくる。熱めの湯にほっと息をつき、肩まで浸かって体を伸ばした。その唇に色が戻ってきたことに安心してから、尻尾でぐるんと巻いて引き寄せた。
「わ!なにすんだ!」
溺れそうになった夏目が文句を言うが、無視する。
「猿より私のほうが、もふもふだろうが」
「は?」
「だから、猿なんかと入らなくても私がいるだろうと言ってる」
「…………いや、猿は単に見たかっただけなんだけど」
呟いて、私を見上げる夏目の目がからかうように笑う。
「なに先生、もしかしてヤキモチ?」
「………………………別に」
夏目が動物が好きなのは知っているし、特に毛がもっさりした生き物がお気に入りというのも知っている。今さらそんなことにヤキモチなんか焼くか。
というかだいたい、なぜ私がヤキモチなんか焼かなきゃならんのだ。餅ならいくらでも焼くが、嫉妬なんて。この私が。
それでも、さっきの夏目の反応は気にいらなかったんだ。私がいるのに、猿なんか見たがったりして。いないと残念そうな顔をしたりして。

「………先生、頼むから否定くらいしてくれよ」

尻尾の囲いの中から、小さな声がする。

「でないと俺、どんな顔していいのかわかんないよ」

見下ろすと、真っ赤な顔の夏目が私から目を逸らしていた。

それを見て、私の顔も熱くなる。

静かな山の中で、二人きりでいることを突然意識した。
なんでだ。今まで、二人きりでいることなんていくらでもあったのに。風呂だってたいてい二人で入るじゃないか。それと今と、状況は同じなのに。

こんなときに限って、動物も妖も姿を見せない。

完全に二人きり。

のぼせたみたいに真っ赤な顔の夏目は、俯いて私の尻尾をもじもじと弄っている。

そういうの、困るんだが。

そういう可愛い仕草は、こんなときはやめてもらいたい。

夏目が身動きするたびに揺れる湯がたてる小さな音すら、耳について離れなくなる。

どうしよう。



,
次へ
前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ