優しい世界

□真実を教えて
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漂流者のように保護された最初の一日からすでに一ヵ月近く経った。


一ヵ月も経ったのでそろそろ屋敷には慣れている…と言いたいところなのだが如何せんまだ構造を覚えきれてはいない。


一度探検させてほしいと願い出たのだがアリアにやんわりと断られてしまった。迷子になっても迷惑になってしまうだろうということで一人で行動はできたものじゃない。



ちょっとだけ行動範囲の限られた屋敷の中で分かったことを話したい。


別段、恐ろしいことも何も無かった。


アリアは最初の頃からずっと変わらず優しいまま。朝食も昼食も夕食もおいしいという家政婦か妻さながらの腕で日々幸せである。


正直ここに来る前よりも幸せな所為で、いざ帰るとき寂しくなってしまわないか不安になるが大丈夫だと思う。家族という存在と過ごしてきたのは十六年間、アリアと過ごすのは最高でも精々二年近くではないのだろうか。



季節は梅雨の何となくじめじめしていて地味に寒い天候から、太陽がガンガン照り付ける時期、つまり夏に移行していた。


しかしそれを示してくれるのは¨八月¨と記されたカレンダーだけだ。実際外の天気は変わっていない。



もう一度言おう。変わっていないのだ。



「…晴れの日、多くない?ここにきてから雨の日を見たことないんだけど」



窓から差し込む優しい光を背に、私は図鑑の恐竜から視線を離してアリアがいるであろうもう一つの本棚の裏に向かって少し大きめに声を掛けた。



本をしまう音が聞こえて、十秒くらい経つとアリアがひょっこり姿を見せる。別段大して気にもしていないことなのに、アリアは人と話すときわざわざこちらに目を合わせようとするのだ。


何となく健気なその様子に私のアリア好きゲージは上がっていく。



「そうだね。雨は降らない」


「そういう場所…なの?」


「そういう場所だよ」



一瞬心臓がびくりと震えあがる。


一ヵ月間、聞けなかった。否、聞けなかったことを今聞くべきだと私の意志が叫ぶ。聞かない方がいいと理性のある私の欲は、聞きたいという欲に負けてしまったらしい。


口が、勝手に開いて、声帯が勝手に震えるのを感じた。



「…此処は何処?日本じゃないのなら、外国なの?それとも、何処か辺境の地?国じゃなくて、もっと―――――」


「国じゃない」



エメラルドグリーンが私を射貫く。


真実を伝える口がゆっくりと開く。



「主権も、領土も、国民も。ここにはいない。主権は必要ない。領土という線もない。縛られる民もいない。


ここは…」


「……ここは?」



流暢に動いていた口が自身に制止を掛けるように突然ぴったりと閉じた。

唇を噛んで耐えているわけでもなかったし、何処か視線をそっぽに追いやって後ろめたい気持ちを隠している様子もない。


ただ閉じられた口と、こちらにまっすぐに向けられた美しい宝石は「聞かないで」とだけ伝えていた。


内面的な感情がアリアを通して私に伝わっている。


聞くべきことでは、ないのだろうか。


私は考えてみた。その様子を見てもアリアは言うのを嫌がっている。嫌がっているとまではいかなくても、言うことに躊躇を覚える程の後ろめたい何かがあることには違いない。


じゃなければ、私の為にはっきりとした情報を教えてくれるはずだ。


じゃあ教えてくれないのは何故だ?彼女にとって、何故場所を教えることが後ろめたいことなのだろう?



例えば、彼女が犯罪者だったら場所を教えることは酷く焦る行為に違いない。場所を教えてしまえば、私から情報が流出する可能性がある。ここまで警察が来る可能性がある。


例えば、彼女自身が此処が何処だか分からないのだとしたら。何も言えないのは当然だ。だって知らないのだから。
何を言えと言っても、此処は地球上にある森の中ですくらいしか言えない。自分の居場所が分からないなんて酷く情けないのだからいうのを躊躇うのは当たり前だ。




でもどの言い訳の案も直感という強引な感情には勝てなかったらしい。どれも信じられないから。



彼女は¨ここが何処なのかを知っている¨。けれど、¨沙織には教えたくない¨。そう思っているはずだ。何故かは分からない。



けれど私は知らなければならない。住んでいる以上、此処で生かしてもらう以上は場所が分からないなんていうのは困る。


帰れたときに彼女にはお世話になったとして手紙を書く必要があるだろう。帰ったときに彼女の住所は流出しなければならないだろう。


きっと日本の家族は今必死に私を探しているだろう。
警察に捜索願を出しているだろう。ニュースになっているかもしれない。


帰れたとき、何処にいたのかと絶対聞かれるはずなのだ。知らない、としらを切ることはできない。



「…」



私が諦めるのを待っているのだろうか。


私が考えている間も彼女はずっとこちらを見つめていた。その時間を考えると結構長い。ということは、長い沈黙を打ち破る気もないということだ。


沈黙が気まずくなって言うというのはない。ならこちらから攻めるしかないだろう。



「此処、何処なの?教えて、日本じゃないんでしょ、国じゃないんでしょ。ならここは何処?どうしたら私は、」


「やめてくれ、沙織。聞かないで。分かっているだろう」


「私、知らなくちゃいけないと思うの。アリア、知ってるんでしょ、此処が何処かって。アリアが知ってて、私が知らないのっておかしくない?」


「やめろ!!」



突然、窓も扉も開いていないのに部屋の中で風が吹き上げた。あまりもの突風が私の手に収まっていた図鑑を巻き上げてしまい、それを伸ばそうとした手は風に押し戻された。


身体の四方八方から風圧を感じる。私に向かって吹き込んでいるのは明らかだ。


本棚が風圧で倒れる。どれほどの強い風が巻き起こっているのか。壁に縫い付けられるようにその風圧に押され身動きができないが、本棚を押す程の風は私の身体を押しつぶしてしまうのでは、と冷たい汗が背筋を走る。


決して風が内臓を押しつぶすだとかそんなことは起きないが、とにかく身動きができない状況に変わりなかった。


暴風の中決してアリアは飛ばされない。それは、アリアが風の中心にいるから、なのだろう。



「やめろ、やめてくれ、聞くな、言わせるな、嫌だ、言いたくない、沙織、沙織!」



そのときアリアは精神疾患者のように見えた。いや…精神疾患なのではないだろうか、とさえ疑った。


言うことに後ろめたさを覚えているのではない。言うことに苦痛を覚えているのだ。白く長い髪の毛が風に弄ばれる。


そんな光景でさえアリアは美しい。自身が苦しいと思うのに、他人に美しいと鑑賞の的にされることは酷くつらいだろう。



あまりにものアリアの酷い状態と、現状の異常さに私は慌てざるを終えなかった。取り敢えず、今日はこの事について聞かないのが妥当と思われた。




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