◆短編小説◆

□救世主様
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『救世主様』

「ポチはかわいいなあ」
 その日、大学からの帰り、俺は近所のポチと遊んでいた。
 ポチはあまり頭がよくない。どんな人にでも吠え掛かるし、いつもおやつをあげている俺のことを俺だと気付くまでにも時間がかかる。飼い主のご婦人に向かっても、ご飯をもらえるまでずっと吠え続けるしまつ。
 ポチが静かになるのは食べ物を見たときだけだ。
「ポチ〜ポチ〜」
 呼んでもポチは応えない。俺があげた犬用ガムを一心不乱に噛んでいるからだ。
 噛んでいる姿があほっぽくてかわいい。
「いつも遊んでくれてありがとうねえ」
 ご婦人が窓を開けて俺に礼を言う。
「いえそんな……」
「この子、誰にでも吠えるから好かれないのよねえ……私も最近ちっとも構ってあげられないから、退屈してたと思うのよ。Oくんが遊んでくれてポチも嬉しいと思うわ」
「そうだといいんですけどね……」
 俺はポチを見た。ポチはまだガムを噛んでいた。
 飼い主のご婦人は最近、娘さんのお家に行ってお孫さんの面倒を見ることが多いらしい。娘さん夫婦は共働きなのだがどちらの職場も育児に理解がなく、残業や休日出勤が多いために、このご婦人がお孫さんに食事を作ってあげているそうだ。
「引き取ったのはいいけれど、こんな調子ではポチに申し訳ないわ……ポチのことをかわいがってくれる親切な誰かに譲るのが一番なんでしょうけれど……」
「俺がアパート住みでなきゃ喜んでお引き取りするんですがね……ポチ……」
 ポチはガムに夢中で、こちらのことなど気にもしていないようだった。俺とご婦人はしばらく無言でポチを眺めていた。
「いけない、そろそろU子のところに行くわね。Oくんは?」
「俺はもうちょっとポチのこと見てますよ」
「ありがとうね。それじゃちょっと」
 婦人は窓から顔を引っ込め、カラカラと閉めた。
 俺がポチの尻尾をつついてみたりしているうちに、ご婦人は出掛けて行った。
 ポチを見つつ、縁側に腰掛ける。
 通行人が数人通り過ぎて行ったが、ポチが吠えることはなかった。ガムに集中していたのだ。
「ポチ〜」
 応えないのはわかっていたが、なんとなく呼びかけてみる。予想通り、返事はない。
「飽きないなあ。尊敬するよ」
 肘をついてふと空を見上げた。夏の入道雲が広がっている。縁側にはひさしがあるので強い日差しは届かない。
 ポチのいるところは木陰になっていて、そこもまた涼しげだった。気温は高いが、耐えられないほどではない。
 セミの声がする。俺は伸びをした。と、そのとき、フォン、という音がした。
 驚いて辺りを見渡す。
「え?」
 ポチの横の空間に、穴が空いていた。
「なんだこれ」
 穴の向こうにはまた別の空間が広がっているようだった。立ち上がってもっとよく見ようとしたとき、突然声がした。
「救世主様のいらっしゃる世界と無事繋がったようですね」
「誰ですか!」
 中腰のまま叫ぶ。すると、穴から人が顔を出した。
「うわっ」
 その人物は50代くらいで、白い十字が描かれた青い僧服のようなものを着、手には妙な杖を持っていた。
「ああ救世主様。我らに力をお貸しください」
 謎の人物はそう言って屈みこむ。
「誰ですかあなた……不法侵入ですよ……?」
 俺の声に耳を貸す様子も見せず、その人物は懐から何かを取り出し、床に置いた。
「お納めください」
 肉……だった。棒状の骨に肉がもりっとついている。
「これを?」
「どうぞ」
「ワン!」
 ポチがガムを放り出して肉にかぶりついた。
「ぽ、ポチ!」
「気に入ってくださいましたか、救世主様!」
 謎の人物は目を輝かせて喜んだ。
「え?」
 その目はポチに向けられている。
「ポチ……?」
 ポチはすごい勢いで肉を食べている。自分を見つめる二つの視線など気にも留めていないようだ。
「あの……」
「さあさあ救世主様、このようなくびきからは自由になって、我々と共に参りましょう」
 謎の人物が杖を一振りすると、ポチを繋いでいた縄が消えた。
 人物はポチを抱き上げ、こちらに背を向ける。
「ちょ、何をしてるんですか」
 そしてそのまま空間の穴に戻ろうとした。
「待ってください!」
 俺は人物のところまで走り、その肩を掴んだ。
 人物は迷惑そうにこちらを見る。
「何ですかあなたは。召使いにしては態度が悪いようですが」
「ポチはおばさんの犬なんです! 勝手に連れて行かれたら困るんです!」
 思わず叫ぶと、相手は俺をきっと睨んだ。
「救世主様は誰かの物になどなりはしません! 誰かの元にいたとしたら、それは救世主様ご自身が選択されたこと!」
「でもあなたはポチを勝手に連れ去ろうとしてるじゃないですか! それはあなたがポチをあなたの物にしようとしてるってことなんじゃないですか!?」
「いいえ、救世主様は我々の元に付くことを選ばれた。それともここに残るおつもりでしたか、救世主様?」
 そう言いながら人物がポチの咥えている肉を取るそぶりを見せると、ポチはウーとうなった。
「ほら見なさい。救世主様もそんなつもりはないとおっしゃっています」
「それは肉を取られそうになったからうなっただけで……」
「神官でないあなたに救世主様の意向がわかるとは思えませんが」
「あなたは神官なんですか?」
「そうですよ」
「……」
 俺は困ってポチを見た。ポチはもう肉を食べ終えたようで、骨をかじっている。それを見て、俺は自分のあげたガムをかじっていたポチの姿を思い出し、胸が締め付けられるような気分になった。
「ポチに、行ってほしくないんです……いなくなったら俺が寂しいから……」
 自分でも気付いていなかった本音が口から出る。
 「神官」は無表情で黙り込んだ。セミの声がジワジワと響いている。

 沈黙を破ったのは、俺でもポチでも神官の声でもなかった。
『神官様、私がそちらに残ります』
 合成音声らしき声は、穴から聞こえている。
「異世界に行くことは神官以外許されていないのですよ。いけません、ピクス」
『止めても無駄です。神官様ならわかっているでしょう。これではこの異世界人があまりにも可哀想すぎます』
 言いながら、声の主が空間の穴から姿を現した。球体の身体にアームを生やした機械……ロボット、のように見える。
 ロボットのアイカメラが神官の方を向いた。
『私は神官様の所有物です。所有物が異世界に行くのは問題ないでしょう』
「ですがピクス、異世界の民とこんな取引のようなことをするのは……」
『うっかり落としてきたということにすればいいのです。神官様』
 神官がロボット……ピクスの方を見、俺を見、最後にポチを見た。ポチは骨をかじり終えていた。
「救世主様。ピクスはああ言っておりますが、どう思われますか」
 ポチはワン、と鳴いた。
 神官は複雑そうな顔で数秒間考えていたが、ややあって、わかりました、と言った。
「救世主様がそうおっしゃられるのなら。……ピクス、心残りはありませんか」
『ないですよ。私はずっと異世界に行ってみたかったのです。兄弟……ポロ達によろしくお願いします』
「やれやれ……いいでしょう。達者で暮らすんですよ」
 神官が空間の穴に足を踏み入れる。
「ポチ!」
 俺の声に反応したのか、ポチは少しだけこちらを見た。
 その目には今まで俺やご婦人に見せたことのない、理知の光が宿っているように見えた。
 ポチはワン、と鳴くと、一つ頷いて見せた。
「ポチ……」
 空間の穴が閉じる。セミの声が戻ってくる。
『これからよろしくお願いします、ご主人様』
 夏の日差しがピクスの金属製らしき身体に反射していた。


  (おわり)





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