◆短編小説◆

□バターと俺
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 その廃ビルには「何か」が住んでいる。
 そんな噂が流れ出したのはいつからだったか。
「何かって何だよ」
 昼休み、噂の話を愉快げに俺にした同僚に訊く。
「さあ。神様とかじゃない? ビルが建つ前に祭られてた地元の神様……」
 同僚の答えはあやふやだ。
「絶対祟られるやつじゃないかそれ」
「じゃあ、猫とか」
「夢がないな」
「何だよダメ出しばっかして。ならお前は何にいてほしいの」
「何もいない方がいい」
「即答ですか」
「だって俺毎日あそこ通るし……」
「はは。そんじゃ探検でもしてみたらどうよ。何もいないって確認できたら不安も消えるだろ」
「するかよそんなこと。俺は平穏な日常を送りたいんだ」
「ふうん」
 自分からその話を始めたくせに、同僚は興味なさげな様子でカップ麺をすすった。
 俺も買ってきたおにぎりにかぶりつく。
 それで噂の話は終わった。

 数日後。
「やだなあ。ほんとはこんなとこ通りたくないんだけど」
 仕事帰り、残業でとっぷり暗くなった中。会社から駅に向かうには、絶対にこの廃ビルの横を通らなければならない。
 今の今まで噂のことなど忘れていたのに、廃ビルに差し掛かった瞬間、生暖かい風が吹いてきて、そのことを思い出してしまったのだ。
「やだやだ。さっさと通り過ぎちゃお」
 早足で通り過ぎようとしたとき、廃ビルから何かが飛び出してきた。
「うわっ」
 俺はびっくりして尻餅をついてしまった。
「にゃおん」
 飛び出してきた小さな影は路上の真ん中で立ち止まると、一声鳴いた。
「ああ。猫か」
 俺はほっとして呟く。だが、
「猫じゃないさ」
 という声。どこから聞こえるかって、周囲に人影はなく。
 となると、この猫しかいない。
「喋った……」
 ベタな反応を返してしまう俺。
「そりゃ喋るさ」
「いや、猫は普通喋らないだろ。喋るとしても、猫語……」
「だから、猫じゃない」
 その影は俺の言葉を遮る。
「猫じゃないなら何なんだよ」
 雲の切れ間から、月明かりが路上を照らし出す。
 猫じゃないと言い張る影の姿がおぼろげに見えた。
 その身体は、銀色に輝いている。
「僕はバターだよ」
「バターってあの……」
 スーパーとかで売ってる、最近ちょっと値段が高めの乳製品で、パンとかに塗って食べるやつだろうか。しかし、目の前の生命体はとてもそれには見えない。直線と曲線から構成された、強いて言うならテレビとかで見るペット型の機械のような、そんな印象だ。
「君が知ってるバターかどうかは知らないが、僕がバターであることは確かさ」
「へえ……」
 相手がそう言うならそうなのだろうか。
「ただし、特殊な加工がされてて、普通のバターみたいに溶けないし腐らない。便利だろ?」
 溶けないし腐らないバターをバターと言うのだろうか? そんなどうでもいいことを俺は考える。
「溶けない腐らないバターだってバターだよ。君が知ってるバターかどうかは知らないって言っただろ」
 こいつ……
「読んだな?」
「読んだよ」
「なんで?」
「バターだからさ」
「はあ……」
 ますますわからない。
「それで、バターさんは廃ビルなんかで何を?」
「住んでたんだけどね」
「だけど?」
「追い出された」
「何に?」
「神様にさ」
「いるのか?」
「いるさ。さっき目覚めた」
 また、風が吹く。
「あんまり噂すると彼、怒るから、もうこの話はやめるね」
「ああ……」
 同僚が出した案は正しかったのか。どんな神様なのかとか、さっき目覚めたって何だとか訊きたいことは色々あったが、自称バターが話してくれる気配はなさそうだ。
「それで、僕住むとこがなくなったんだけど」
「それはつまり……」
「わかってるだろ。君の家に置いてくれ」
「ええ……」
 確かに、一人暮らしは寂しいと最近思い始めたところだが。
「いいだろ?」
 うちのアパートはペット禁止だ。こんな得体の知れない猫のようなものを部屋に置いたら、大家に何を言われるかわからない。
「大家さんには僕から説明するよ」
「いや、しなくていい……」
「僕は便利だよ? なんと言っても家事ができる。話し相手にだってなれる。君の抱えてるその暗い思い出だって、必要なら引き取ってあげられるよ」
「……」
「お、心が動いたね?」
「ああもう、わかったよ、ついてこい」
「やった。ありがとう」
「その代わり、記憶を読むのはやめてくれ」
「ええー?」
「思考なら読んでもいいから」
「ふーん、それなら。ありがとう。君けっこう優しいね」
 けっこうは余計だと言いたかったが、言っても無駄そうだったのでやめた。
 そして、俺は猫じゃないバターをアパートに連れ帰った。

 バターは俺の生活に驚くほど早く馴染み、俺とバターの円満な暮らしが始まった。
 俺は夜帰ってきてから仕事の愚痴をバターに言って、バターの方はどこで見てきたのか知らないが、その日自分が見た綺麗な風景の話を俺にした。
「その工場にはパイプがたくさんあってね、それが全部空に突き立ってるのさ。空は夕暮れで、紅く染まった雲がどこまでも広がってる。そこに住んでる猫は縞々で、キラキラ光る幻想の金属くずを食べて生きてるって言ってたな」
 バターのする話にはいつも空想のような要素が含まれていたが、俺にはそれがなぜか面白く感じられ、毎日飽きずに聴いていた。
 苦労していた家事もバターが全てやってくれ、俺の暮らしは朝起きて仕事に行って帰ってきてバターの作った食事を食べて、その後寝る準備をしてベッドに入ってバターと会話しているうちに眠りに落ちる、というシンプルなものになった。
 大家にはもちろん、同僚や上司にもバターのことは言っていなかったが、会社では最近お前明るくなったなと言われ続け、いつからか俺には最近同棲する彼女ができたということになっていた。
「いいっすね〜彼女。俺も欲しいっす」
「羨ましいぜ。でもお前なんかに惚れる彼女ってよっぽど変人だよな」
「ああまあ……」
 密かにディスられているが、適当に流す。
「そういやお前全然彼女の話しないけど、どんな彼女なんだ? 黒髪ロング?」
「いやまあ……そういうのは秘密で」
「なんだ、ノリ悪いな」
「あー、すまん。でも優しい奴で、俺といつも話しをしてくれるんだ」
「ん? 彼女が彼氏と話すのは当たり前じゃないのか?」
 それもそうだが、俺とバターは彼氏彼女じゃないから、そういう関係でもないのに俺と話しをしてくれるバターはやはり優しいのだ。
「とにかく優しいんだよ。料理もうまいし」
「のろけますなあ」
「ははは」
 そんな会話が飲み会の度に繰り返された。

 月日は流れ、バターと出会ってから半年と少しが過ぎた。
 バターは今や俺の生活に欠かせない存在となり、俺はバターにすっかり気を許していた。
 バターの方はどうかわからないが、俺との生活を楽しいと思ってくれているのだろうか。
 居候なのだから、楽しいも何も選択肢がなくはあるが。
 バターがそわそわし出したのは、寒さが少し緩み年度末に差し掛かろうとするそんな時期だった。
 窓際でぼうっとしていることが増えた。夜、話している途中にぼんやりして話を止めてしまうこともある。
 どうしたんだと訊いてみても、曖昧に誤魔化される。
 俺がいない間にバターが家事以外の何をしているのかは知らないが、悩み事があるなら相談して欲しいと思うし、そう言った。しかしバターはいつも、なんでもないよと言う。

 そんなある日。

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