A tale of Erebor

□四章、王の最期
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敵、敵、すべて敵。囲まれたネルファンディアとドワーリンは絶望的な状態に陥った。
「………下がって!あと、伏せて」
「な、何をするつもりだ」
彼女は杖を頭上高くあげると、勢いよく地面に振り下ろした。その衝撃で周りの大柄なオークたちが吹っ飛ぶ。ドワーリンは座り込んだまま目を丸くしてネルファンディアを見上げると、苦笑いをした。
「あんた、やっぱり魔法使いなんだな………」
「父はもっと凄いわ。私なんか、足元にも及ばないくらい」
彼が気の利いた言葉をかけてやろうと口を開いた瞬間、新手のオークたちがやってきた。彼はネルファンディアの前に立つと、トーリンがいる方向を指さした。
「ネルファンディア、ここは俺に任せろ。トーリンが心配だ、行ってやってくれ!」
「ドワーリンさん………わかった、ありがとう」




トーリンは歯を食いしばり、耐えていた。オルクリストの刃がかろうじてアゾグの刃を受け止めていたが、上から押さえつけられているため、勝敗は確定しているようなものだった。
────ここまで、か
そう思うと、刹那の間に数々の思い出が彼の脳裏を駆け巡り始めた。初めて馬に乗った日。弟と妹ができた日。初めて狩りで獲物を仕留めたとき。初めて王子として国に出向いたとき。初めて弟と喧嘩をして、泣かされた日。
辛かったのは故郷を失い、路頭に迷って王子の身分を失った時だったが、それでも、周りにはいつも頼れる仲間たちがいた。ドワーリンやバーリン、そして彼の父も一緒だった。かわいい甥の将来を考えるだけでも楽しいことだってあった。そんな彼らの故郷に帰りたいという願いを叶えるため、その重みを一身に背負って始めた旅は、思わぬ形で彼の人生に新たな色を加えることになった。
──────初めて、恋をした日。
颯爽と駆け抜ける馬に乗ったネルファンディア。名前も知らない銀の髪の乙女に心奪われ、名前を知り、旅を共にしてからはますます惹かれていった。彼がなにより嬉しかった日には、二つの出来事があった。一つは故郷を取り戻した日。そしてもう一つは…………
『許されぬことではありますが、私も同じ想いです』
ネルファンディアと同じ思いだと、知った日。あの時の笑顔は最高に綺麗だった。抱きしめた感覚も、ときどき気難しそうに眉をひそめる表情も、全てが愛しかった。

─────死にたくない。

モリアで戦った時は何の迷いもなく死ねると思っていたトーリンだったが、今は違った。けれどそう思った時にはもう、命の限りが見える場所に立っている自分のことをつくづく恨んだ。
アゾグは低く、邪悪な声で笑った。
「ドゥリンの血は絶える!おまえが最後だ」
トーリンは苦痛で顔を歪めながら、しっかりと答えた。
「…………確かに、そうかもしれない。ドゥリンの血は絶える。────だが、ドゥリンの誇りと、歴史と、記憶は何人たりとも消すことは出来ぬ」
────ネルファンディア。愛しいネルファンディア。今、両手が空いていれば、空を切っても構わない。幻想の中のそなたを抱きしめたい。
トーリンは最初で最後、一筋の涙を流すと、覚悟を決めた。
次の瞬間、オルクリストはトーリンによって外され、アゾグの刃が彼の胸を貫いた。トーリンはあまりの苦痛に顔を歪めたが、その顔は確かに笑っていた。
「ドゥリンの血は絶えた!!!俺の勝ちだ!!」
「───いいや、お前の負けだ」
トーリンの言葉に驚いたアゾグが油断した隙に、最後の力を振り絞ってトーリンはアゾグの胴をオルクリストで貫いた。
ああ、そういえばこの剣の異名は"かみつき丸"だったな。
そんなことを思い出しながら彼は放心状態のアゾグに上からのしかかり、渾身の力を込めて剣を深々と突き刺した。

こうして穢れの王は死に、戦いは終わった。彼は振り返り、エレボールの山々を見下ろした。
彼は驚いた。今まで見ていた景色と同じなはずなのに、何故か輝いて見えるからだ。そして、すぐに彼はその訳に気がついた。
「─────死ぬから、か…………」
なんて美しい世界なんだ。黄金などとは比べ物にならないほど、美しい物がこの世に沢山あることを彼は改めて知った。思えば、自分がしてきたことを考えると当然の報いのようにしか思えない彼は、皮肉げに笑うことしか出来なかった。それから急に激しい疲労感と鈍い痛みに包まれ、彼は立っていられなくなるとそのまま凍った川の上に倒れこんだ。目を閉じてしまえば、楽なことは分かっていたが、中つ国の姿を目に焼き付けたいという思いがそれを拒んだ。それにまだ彼は心の中で願っていた。
────最期に一目…………

ネルファンディアに逢いたい、と。







ネルファンディアは石段を軽やかに降りると、トーリンの姿を探した。彼は凍結した、両端を崖で挟まれている川の中央にいた。彼女はそれを見て目を見張った。
トーリンが、氷の上に力なく寝そべっていたからだ。彼女の頭に、冷たい衝撃が走った。
「トーリン!」
早く走って行かないと間に合わないのに、こんな時に限ってこけてしまう自分の足が憎かった。彼女は雪と泥で身体が汚れるのも気にせず、走った。石畳を転がり落ちているのか、駆け下りているのかがもはや分からなかったが、なんとか彼の元に着いた。
「トーリン!!!しっかりして!」
「………………ネルファンディア…………?そうなの………か……?」
「トーリン、私よ。だからもう大丈夫。すぐに助けてあげる」
彼女はそう言うと、傷を確認した。そして、もはや手の施しようもない状態に絶句した。
「…………そんな…………どうして………」
「……聞いてくれ、ネルファンディア」
トーリンは震える手でネルファンディアの頬に手を伸ばした。届かないその手が空を切る前に、彼女が手を差し出して頬にあてがった。
「…………婚約は、破棄してほしい」
「え………」
あまりにも意外な願いにネルファンディアは戸惑った。彼女は首を大きく横に振り、意思を示した。
「いや!私は………私はずっとあなただけを愛しています。だから、せめて………あなたがどこに行こうとも、迷惑でないのならばこのままにして………お願い……」
トーリンはこの実直で、心優しい姫を独り残すことが心残りだった。彼女はきっと誰にも言えない心の傷を抱えて生きていくだろう。
「…………あなたの本心じゃない、トーリン。私のことを思って言うなら、それは間違いね」
「私を忘れて生きてほしいんだ、思い出としてでもいいじゃないか……」
ほら、そういう人だから好きなのに。
ネルファンディアは優しく微笑むと、トーリンの頬を撫でた。
「忘れないって約束したじゃない。魔法使いと安易に約束すると面倒なんだから、ね」
「ああ、本当にそうだな………」
彼が安心したような表情になる。彼は自分の手にはめている指輪を抜き取ると、ネルファンディアに差し出した。
「……これは?」
「本当はもっと綺麗な指輪を……渡したかったのだが…ドゥリン王朝の者であることの証明になる…きっと、役に立つ…」
「トーリン………あなたが持つべきよ。貰えないわ」
返そうとしたが、彼はその手に自分の手を添えた。婚約指輪のつもりで渡していることはすぐに分かった。
「………ここでの思い出として……持っていてくれ」
「………忘れないわ。絶対」
婚約指輪と言わず思い出として、と言う彼の優しさに触れるたびに、ネルファンディアは必然と訪れる別れの残酷さに打ち震えた。
「トーリン!!」
ふと振り向くと、ビルボがやってきた。ネルファンディアの表情を見て彼は全てを悟った。トーリンは彼に何か言いたげな顔をして、力ない手で手招きした。
「…………ビルボ………許して欲しい、私を」
「そんな。僕はあなたの友達ですから。」
「…………そなたは待ち焦がれた家へ帰るのだ。……お気に入りの椅子に座り、暖かい暖炉の前で本を読み、どんぐりの木が成長する姿を見届けよ…………」
待ち焦がれた故郷。帰りたいと思っていた場所。ビルボもネルファンディアも帰ることが保障されているものが、もうトーリンには届かない。その事実が二人の心に重くのしかかった。トーリンは最期に、虚ろな目で笑った。
「────皆が黄金より………家を………愛するようになれば…………世界はもっと…………楽しい場所になる…………」
ビルボは声をつまらせ、それ以上何も返せなかった。ネルファンディアは彼の手を取ると、今までで一番美しい笑顔を見せた。せめて、これで別れるなら一番いい笑顔で送ってあげたいという思いからだった。
「───そうね、トーリン。少し、眠った方がいいわ」
「ああ……時間が来たら……起こしてくれ………」
永遠に来ない目覚めの約束を交わした二人は初めてあった時のように笑った。
「………ネルファンディア」
「なぁに、トーリン」
「………愛して………いる………」
不器用で口下手な彼が最期に言った言葉は、ネルファンディアへの愛の言葉だった。彼はその返事を待たずして、最後の息をはいた。
「────私も!私も愛しています。1000年先も、2000年先も、あなたを───」
彼女はトーリンのもう鼓動を打たない胸に顔を埋めると、寂しく独り呟いた。
「────愛しています」
明るくなった空には、グワイアヒ率いるオオワシの群れが飛んでいる。戦いに勝利し、誰もが喜びあっている。だがその歓喜の声も、オオワシの気高い鳴き声も、ネルファンディアの耳には届かなかった。



その日、エレボールは歴史的勝利を収めた。

しかし、同時に偉大な王を失った中つ国は、彼らにはどこか色を失ったように映るのであった。

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