A tale of Erebor

□五章、帰郷の時
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その後のことはよく覚えていなかった。ただ、悲しいのに涙が出なかったことが辛くて、母がなくなった時と同じだなと他人事のように思えた。
ネルファンディアは珍しく優しい父親に声をかけられながら、エレボールへ戻った。なぜ戻るのか。それは、勝利を祝うためではない。
────それは、愛する人を葬るためなのだ。
気がつけば、冷たい石の上に載せられたトーリンの姿を見ていた。彼は若き甥たちの隣に並べられ、心なしか寂しくはなさそうだった。ネルファンディアはもう目を覚まさないトーリンに向かってぽつんと呟いた。
「…………もう、起きていいんだよ」
そんな娘の姿をガンダルフ、ラダガスト、ビオルンと見守っていたサルマンは、唇を噛み締めて地面を睨みつけた。彼女の母の時と同様、どんな魔法の力があっても、どんなに賢者として崇められても、誰の死も救えない自分を彼は呪った。
スランドゥイルは音もなくネルファンディアの隣に立つと、そっとアーケン石をトーリンの手に添えた。
「………ビルボが持ってきたのだ。トーリンを正気に戻すため」
「………私でも出来なかったことを彼はやってのけた。私がもう1度、彼に会えたのはビルボのお陰です」
「………どんな美しい石より、黄金よりも仲間を気遣えるこの男こそ、真の王だ。そして、今ならきっとこの男はアーケン石を持つのに相応しい。」
「ええ…………」
スランドゥイルはそこまで言うと、ネルファンディアの様子をちらっと見た。トーリンが己の命を燃やしてまで愛した姫は、エルフとは比べ物にはならないほど美しかった。エルフは命を削るほどの悲しみを経験すればするほどその美しさに磨きがかかると言われているが、今のネルファンディアはれっきとした上方エルフの美しさにも勝ると劣らぬ姿だった。けれど、彼女はきっと美しさなど要らないと思っているだろう。かつてスランドゥイル自身が妻を失った時にそう思ったように。
彼はネルファンディアにトーリンが渡したネックレスを返すと、静かに去っていった。背を向けて歩き出すうちに、彼はふとあの日のトーリンの言葉を思い出した。
────結局トーリンは限りある死は、怖くなかったのだろうか?
スランドゥイルは答えの出ない問に哀しく微笑むと、それ以上何も言わずにエレボールを後にした。

葬儀が始まると、ネルファンディアはエレボールのテラスに独り立った。最期の別れであることは分かっていたが、彼はここにいない気がしたのだ。
────西に行けば、あなたはいるのかしら。
あれからずっと、トーリンのことを目で探している。目覚めることのない人を待ち続けることは愚かであることも知っていた。それでもネルファンディアは待つことを決意していた。そして、探してもどこにも居ないことも知っていた。
「………約束……したのに」
何があっても離れないと。ずっと、一緒だと。
「嘘つき………」
それは、優しい嘘だった。けれど、誰よりもネルファンディアを深く傷つけた嘘だった。
不思議と涙が出ない彼女は悲しみを表現する自分を失ってしまったことに気がついた。
───ああ、それほどに私はあの人を愛していたんだ。私は…………
葬儀の声が響き、エレボール中にトーリンやキーリ、フィーリを称える言葉がこだました。
「王よ、永遠なれ!!!」
「王よ、永遠なれ!!!」
ネルファンディアはトーリンからもらった指輪を紐に通すと、首から下げて眺めた。そして、夕日にそれをかざすと生まれて初めて大声で叫んだ。
「─────王よ、永遠なれ!!!!!」
トーリン、私は生きていく。
例え、あなたが居なくても。
あなたはいつでも傍に居るから。
夕日が傾いていく。紅い陽射しがネルファンディアの頬を染めた。それはこの日流れた血の色でもあり、この日まで生きてきた人々の生の証。

そしてネルファンディアは、必ずこのトーリンが愛した中つ国を守ろうと決意したのだった。



葬儀が終わるとネルファンディアは、棺が納められる最後までトーリンの傍に居た。目を閉じると、懐かしい日々が駆け巡る。思えば半年程共に旅をした。二人で見張りをしたときもあったし、道順のことで喧嘩をしたこともあった。驚くほど頑固で、そのくせに繊細なトーリンは、ネルファンディアと相反する部分もあったし、かといって全てが合わないこともなかった。なんとも不思議な感じだが、案外運命の人というのはそういうものなのかもしれない。
すると、ネルファンディアの隣にバーリンとガンダルフがやってきた。彼女は力なく顔を上げた。バーリンの手にはオルクリストが握られており、それは彼女に差し出された。
「───これは?」
「トーリンの剣です。あなたが持っていてください。皆で話し合って決めました」
「でも………」
王者は剣と共に葬るのが普通だ。ネルファンディアはすこし戸惑うと、自分が今まで使い続けた剣を代わりにバーリンに渡した。
「………私は彼に約束をしました。私はいつまでも、彼の守護者であり続けなければ」
「………お悔やみ申し上げます。ドワーリンから聞きました。ご婚約の直後の悲劇だと……」
バーリンは言葉を慎重に選んで言った。彼女はトーリンからもらったネックレス代わりにした指輪を紐を手繰って首元から出してくると、微笑んだ。
「私は………幸せ者です。山の下の王に結婚を申し込まれたのですから」
彼は指輪を覗き込むと、いつもの穏やかな笑顔になった。
「あの方は最後の最後まであなたのことを考えていらっしゃったようですね」
「え……?」
「その指輪はドゥリン王朝の者である証。それがあればすぐに我らドワーフたちは援軍をお送り出来ましょう。そしてその軍の指揮権も得られます。それに───」
「それに?」
彼は悪戯っぽく笑うと、ガンダルフの方をちらっと見た。
「────ドワーフは心から愛した人に自分が身につけているものを贈るのですから」
これが、彼が自分を愛していた証。
ネルファンディアは目を閉じると、ぎゅっと指輪を握りしめた。冷たいはずの指輪が、何故か暖かく感じられたのはきっとトーリンの愛情がこもっているからであろう。

次の日の早朝、ビルボはガンダルフと共に帰郷のために旅立った。別れ間際ネルファンディアはビルボに礼を言った。
「ありがとう、ビルボ。………また会えるといいわね」
「もう冒険は懲り懲りですから。ああ、そうだ。あなたは僕の家を知らないな。袋小路……いや、ブリー村の西側にあるホビット庄って知ってる?灰色港のすぐ近くなんだけど。そこの袋小路屋敷に住んでる。ええと、番地はね……」
相変わらずのビルボにネルファンディアは失笑した。
「いいわよ、大体分かったから。」
「ノックは、みんな同様に要りませんから」
「……ありがとう」
彼は礼儀正しく会釈すると、ガンダルフの用意した馬に乗った。
「さようなら!ネルファンディア───蒼の姫君!」
「ええ、また会える日を楽しみにしているわ、忍びの者よ」
ネルファンディアはビルボの背中を見て、ふと思い出した。彼女は伝え損ねたそれを言うために彼の名前を呼んだ。
「ビルボ!」
「はい!なんでしょうか?」
「植えるから。」
「へ?」
「どんぐり!何になるのかは知らないけど。」
彼ははじめ何のことかさっぱりだったが、すぐにあの時に渡したものの事だと思い出し、少し遠くからでもわかるように大きく頷き、手を振った。
それからネルファンディアは彼らの姿が見えなくなるまで見送った。やがて彼らの姿が完璧に遠くに消えてしまうと、彼女は振り向いて出発の支度を既に済ませている父のほうに声をかけた。
「───帰りましょうか、私達も。裂け谷に」
「いいや、あそこには帰らぬ。アイゼンガルドへ戻ろう、ネルファンディア」
ネルファンディアは驚いた。今までであれほど裂け谷に仮住まいすることを喜んでいた父が、突然アイゼンガルドへ戻ると言い出すとは。彼はそっぽを向くと、ぼそっと呟いた。
「…………オルサンクの上からならば、離れ山も見えよう」
「………お父様……」
彼女は父の気遣いに思わず嬉しさのあまり抱きついた。
「お父様、大好き」
「………帰ろう、そなたの故郷へ」
「ええ。」
故郷へ。ネルファンディアの背中をトーリンが押してくれる気がした。

帰路の途中、どうしてもサルマンはネルファンディアに聞きたいことがあった。
「………ネルファンディア、トーリンとは……」
「友達ですよ、ただの」
はっきりと言った彼女の姿を見て、彼は全てを悟った。彼は少しだけ顔をしかめると、彼女に尋ねた。
「………お母様と私の話を聞きたいと言っておったな」
「ええ。」
「アイゼンガルドまでは長い。……聞くか?」
「じゃあ、宜しくおねがいしますわ、お父様」
彼はにこりと笑うと威厳のこもった、けれど父の優しさ溢れる心地よい声で語り始めた。

最初で最後サルマンの口から語られたこの物語は、後にビルボが起草し、その完成はフロドとサム、そしてピピンとメリーの仕事となるのだが、それはまた別の話である。

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