ひとりよがり
□2.忘却されたある事象と、忘却の価値について
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朝が来た。今日の最初の予定は、曜日の関係上報告会から始まった。週に1度、いつもは事務処理に使っているスタッフルームで、その部屋に自分のデスクのある人間が、あれやこれやと話をする。時には治療の方針が変わることもある。
ぼくらは指定された時間には、問題なくデスクに付いていたので、報告会は定刻通りに始まった。
「なにか変わったことはありましたかな?」
小太りの柔和な面持ちの男性が、ぼくたちにそう聞いた。彼は茶菓梨ミサオ医師。この部屋を使っているのはぼくを含めた精神科を専攻するチームで、だから今朝も人は五人しか居ないのだけれど、そのなかではリーダーという扱いになる。
ひとり、手を挙げた人がいた。伊三次タクジ先生。最近療養院へ入った患者さんの中に、コミュニケーションの取りづらい人がいるらしい。
「とりあえず、カウンセリングなど要らないの一点張りです。今他人に何を話せと言うんだと、怒鳴られるばかりで。」
「…そうですか。」
ミサオ先生はそう答えて思慮深い顔をする。
理解するのに難くはない。それまで考えてもみなかった余命なんて言葉が急に身の上へ降りかかっていて、誰の声も耳に入らないひとが、稀にいる。
ぼくには直接関係のない話だった。そういう対応はもっと組織の上の方か、もしくはリーダーのミサオ先生に委ねられる。
もうひとり、手を挙げた人がいた。ボクとさほど変わらない年の女医だ。彼女の名前は櫛部イクコという。あまり、親しくはなかった。タクジ先生と恋仲だというのは、周知の事実だ。その人の言葉は、その前の発言よりずっとずっと、ぼくの頭にこびりついた。
「うわごとで、恋だから愛に殺されると、そういう人がいます。」
会議の中の反応は薄かった。ミサオ先生もタクジ先生も、首をかしげる程度でその一言に関する言及はなかった。だけどその、単なるうわごとに、ぼくはぴしりと固まってしまった。
恋が愛に殺される。
それは、ぼくが、ずっとむかしに聞いた、ある患者さんの一言に酷似していた。
「他にありませんか?」
ミサオ先生が聞く。ぼくの顔ともうひとり、今だ発言をしていない左輪下タイスケ先生に、その視線は向いていた。タイスケ先生は首を振る。ぼくも、なにも言わなかった。
そうこうして、会議は終わった。うわごとに気をとられていたぼくは、ミツナさんや、カツキくんの教えてくれた記憶の話をしそびれた。院長に先んじて話してしまった内容だから、あとで何か言われるかもしれない。