和風中編

□狼男伝説〔前編〕
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 時は中世――
 その閭にはひとつの伝説がある。
 裏の深山には狼男が住み憑いていると。
 そして、何年かに一度は閭の者の死を告げに来る。
 それが狼男だと誰が言ったかは知らない。
 だが、深山からの訃報を携えてくるのは狼男であると、閭の者であれば誰でも知っている。

*  *  *


「緤、お願いだからおやめ。やめておくれ。母さんを残して行かないでおくれ」
 旅装束の美しい娘に、すがりつく老婆の姿があった。雪よけの領巾から流れる黒髪はつやがあり、そこに隠れる顔はとても白い。一年のうち半分は雪に埋もれるこのあたりの女の中でも、緤の肌はいっとう白かった。
 緤が首を傾けて、そしてその小さな目を伏せる。
「ごめんなさい、母さま。でも、だめなの。このままじゃ私、生きていけないわ」
「でもおまえ、そんなに弱い体で旅に出られるとお思いかえ?」
「行かなければならないの、母さま」
「愁一郎が言った年月はもう過ぎておるではないか。だから、おまえもこの閭で婿をもろうて……」
「――ごめんなさい」
 緤はくしゃりと顔をゆがめた。ぽってりとした紅い唇が別れの言葉をつむぐ。
「このままだと私、死んでしまうわ。愁一郎さまを想って醜くなってしまう。だから母さま、お願い。わかってちょうだい」
「でも、でも……今の季節なんて……」
「今じゃないと、もう愁一郎さまに逢えないと、そんな気がするの。だから……」
 涙と鼻水を垂れ流しにしたまま、老婆は緤の腰に抱きついた。何も言えず、ただ、おう、おう、と泣くばかりの老婆の背は醜く曲がっている。骨の出っ張ったその背を、緤はできる限り優しくなでた。
「あの人を見つけたら、すぐに帰ってくるから。きっと、この閭に帰ってくるから。それまでの辛抱よ」
 緤はできるかぎり明るく言った。そして、付き添っていた隣人の一人に向きなおった。
「では、母をお願いします」
「だが、緤、本当に、行かなくても……。そうじゃなくても、これから先、雪の多くなる季節だ」
「私が、だめなんです。わがままを許してください」
 男は緤をじっと見つめ、それから諦めたように息を吐いた。
「――わかった。だが、深山には近づくんじゃないぞ。あそこには、狼男がいる」
「はい」
 緤は老婆の手を自分の腰からはがして、老婆の肩を抱きしめた。壊れないように、そうっと。
 じゃあ、と言って背を向ける緤の背は毅然としていて、だがそれがとても寒々しくて、声をかけられるものはだれひとりとしていなかった。
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