現代短編

□祈り
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「あれ?」
 私は思わずすっとんきょうな声あげた。
「どうしたの?」
 妻が訊いてくる。妻は勝気な女で、私は妻の取り乱した姿を一度しか見たことがない。
「何か、浮いてる。ほら、あのピンクの」
 卵?
 殻をむいた、ぷるんぷるんとした。
 見慣れた青灰色の空が、今は真っ青だった。藍色に近い濃い青の中にぽっかりと浮かぶピンクが美しい。
「なんだ、風船じゃないの。めずらしいわね、こんなところでふわふわしているなんて」
 妻はこともなげに言って、それでもくすぐったげに笑った。
 その笑顔にしばらく見惚れて、私はピンクに視線を戻す。
 何かが、動いていた。風船の後ろから出て、まるで生き物のように小さく動いている。
 それが羽だとわかったのは、風船らしきものがこちらにそれをよく見せるように一回転したからだ。
「おい……」
 私は思わず声をかけたが、返事がない。もう一度呼びかけようとして、私は振り向いた。だが、そこにはもう妻の姿はない。
「おい……」
 同じ方向を向いたまま私は再度つぶやく。私の横を冷たい風が駆け抜ける。そしてその後ろをゆっくりとやってきた、暖かい風。
 その風を追って私は視線を上げた。
「待……っ」
 私は思わず手を伸ばした。風船は風にさらわれていた。
 風船が、ぴたりとその動きを止める。私が両手を広げると、ぴくりと震え、ゆっくりと私の腕の中にやってきた。そう、そう、おいで――
 これは――
 風船を自分の腕に抱いて、私は知った。
 ずっしりと安心する重み、じんわりと私よりやや高い体温。
 夏姫――生きてこの手に抱くことさえかなわなかった娘よ。
 私は呼びかける。生れ落ちたその瞬間、命を失った我が娘へ。
 羽が、震えた。
 ――違うよ。
 そして私の手から勢いよく飛び立った。私の手の届くか届かないかのところで思い出したように一回転する。その仕草が、にっこりと笑った妻の丸い顔にそっくりだった。
 ――そうか。
 私は晴れやかに笑った。


 私はゆっくりと目を開けた。膝についた手から頭を解放し、視線を少しだけ上げる。
 視界に入るのは真白な廊下と壁と、パウダーピンクのドア。そしてその上に丸く飾られる、『分娩室2』の黒い文字。
 中からは、さっきから波打つような女の苦しむ声が聞こえてくる。
 隣で手を握ろうと言い出せなかったのは、怖かったからだ。
 前に夏姫を喪ったときの空虚がよみがえりそうになったからだ。
 だから、その壁の向こうの戦地には入ることができなかった。短い髪の毛をもみくしゃにしながらも外のベンチにしがみついていることしかできなかった。
 でも、今なら言える。
 今生まれようとしている命が勇気をくれたから。
 私は立ち上がり、パウダーピンクのドアに両手をしっかりとつく。誰に止められても構うもんか。私に今できることはこれしかない。
 妻の喘ぎ声が大きく聞こえた。
 私は大きく息を吸い込んだ。


「がんばれ」
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