現代短編

□クレヨン
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 赤いクレヨンをつまみあげる。
 その指は細くて長く――磨きあげられた爪が形よく乗っている。
 彼女は微笑み、視線をずらす。その瞳に映るものは、写真の中の二つの笑顔。幼い顔と、大人の顔と。どちらも、眩しいものを見るように目を細めている。
 幼い頃は、暇さえあれば母の後ろについて歩いた。
 毎日きっちりと化粧をしていく母の姿は、子ども心にも誰よりも美しく、よく鏡をのぞいて母の身仕度を見守ったものだった。
 だから、初めてクレヨンを買ってもらったとき、そうしたのはある意味当然のことだったのだ。
 口の周りを真っ赤に塗りたくり、嬉々として台所に駆けていった。
 そのときの母の顔は印象的で、今でもずっと忘れられない。母は口を開き、目だけをせわしく動かしていた。
 あのときは不思議に思ったものだが、今ならその意味がわかる。あきれていたのだ。怒るべきか否か迷いながら、笑いも必死に堪えていたのだろう。
 でも結局、母はそのどちらもしなかった。
 膝をつき、娘の目をまっすぐに見て、きれいよ、と囁いた。さすがはお母さんの子だわ、と言って抱きしめてくれた。
 普段はの母は忙しすぎて、抱きしめてもらえることなんてなかった。だけど、その一瞬、彼女は母の温かみというものをふいに感じたのだ。きれいと言われたことが嬉しかったのではなく、抱きしめられたことの幸福感が嬉しかった。


 彼女は爪をクレヨンに突き立てた。
 赤い顔料が指との隙間に入り込み、血のように見える。
 彼女は力なく笑った。血と全然違うのに、血に見えるなんて、と。そしてさらに押していく。
 次の瞬間、写真の中の「彼女」は、美しく紅をはいていた。
 これでもか、これでもかというように、彼女は写真の中の笑顔に何度も紅をはいていく―――


 母の写真は一枚きりだった。
 一枚きりの写真とクレヨンだけを残し、母は姿を消した。
 どこへ行ったのか、彼女は知らない。
 だが彼女はそれはそれでいいと思っていた。彼女の母はいつも若くて美しく、それ以外の母を彼女は知らなかいのだから。
 だけど――
「変な顔」
 いつのまにか、彼女はあの時の母と同じ歳になっていた。
 今はもう、クレヨンを口の周りに塗る勇気はないけれど。
 それでも、あの一度きりの母の匂いが懐かしくて。
 彼女はただ手を動かすのだった。
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