贈物

□譲れないもの
1ページ/2ページ

(し、執務室はどこだ……)
 絳攸はダラダラと汗を流した。さっきから、もう一刻近くも歩いているのに、見慣れた執務室の戸はいつになっても見えてこない。
 毎日のように通った道。こんなに遠いはずがなかった。なぜそんなにも遠く感じるのか……その答えをはわかっている。いつも余計なほどに道案内を買って出ていた男の不在だ。それに思い至ると、急ぐ気がしなくなって絳攸は立ち止まった。
(……冷えている)
 人気がない。ここはそんなに朝廷のはずれなのか。それとも内宮の近くまで来ているのか。それさえわからない。
 絳攸は回廊から庭を眺める。綺麗に手入れはされているが、華やかな色はどこにも見当たらない。よく言えば落ち着いた、悪く言えば寂しい庭だった。
「……絳攸様?」
 いたわりのこもった声に、絳攸は救われた思いがした。道のことだけではない。この回廊のごとく冷えてしまった心に、それは必要なものだった。
「どうしました? 御史台にご用ですか?」
 そう尋ねることでさりげなくここが御史台の近くだと伝えてくれる。
「執務室に用事があって……」
 秀麗の前ではなぜか素直になれる。秀麗は微笑んだ。
「執務室ですか? 奇遇ですね、私も執務室の近くまで用があるんです。ご一緒させていただいてもいいですか?」
「ああ、頼む」
 秀麗は絳攸が小さく頷くのを見て、向きを変えて執務室へと向かう。
「え……?」
 秀麗が驚いたように振り返って、絳攸はハッとした。無意識に、秀麗の官服の袖を掴んでいた。
「……どうしたんですか?」
「え? いっいや……すまない」
「いいんですけど。大丈夫ですか? お疲れなのでは?」
「疲れ……?」
 そうかもしれない、と思った。この頃とみに忙しい。精神的にもかなり参っている。
「秀麗……少しだけ、時間いいか?」
「え? いいですけど……絳攸様、お忙しくないんですか?」「大丈夫だ」
 絳攸は欄干に寄りかかる。認めたくはないが、片割れがいなくなってから、誰にも相談できないままずっと悩んでいた。
「どうすればいいんだろうな……」
 絳攸とは思えないほど長い長い沈黙が落ちても、秀麗は静かに待った。やがて出てきた言葉も、独り言のようで。
「俺には、何よりも誰よりも大切な方がいる。その方のためならなんだってできる。だが、その方が王を見捨てろと仰ったとき、俺は主上から離れるべきなんだろうか……」
 ──楸瑛のように。
 矛盾している。黎深のためならなんでもできると言いながら、一方では黎深の心に抵抗しようとする自分がいる。
 どうしようもないことを言っているという自覚もあった。黎深の存在すら知らない秀麗が、絳攸がどれほど黎深を大切に思っているかを知っているはずがない。ましてや答えを返せるはずがない。
 楸瑛が──同じ悩みを共有していた同志がいなくなったことが寂しいのか。この上なく大切な黎深の意思に素直に賛同できない自分が腹立たしいのか。それともあのまっすぐな好意を向けてくれる王との距離が身に染みて感じられて辛いのか。
 わかっていることはただひとつ。楸瑛が藍家を選んだ今、全ての官吏の目が絳攸に向けられる。時間はそうない。ずっと自分の全てだと思っていた黎深か、忠誠を誓ったと思った王か。どちらも譲ることはできないのに、近いうちにそのどちらかと決別しなければならないかもしれない。
 答えはないのだ。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ